香港にある香港科学館で、古代エジプト展「Eternal Life: Exploring Ancient Egypt」を観る。
香港が中国に返還されてから20周年を迎えることを記念するイベントのひとつである。
展示場は、学校の社会見学で訪れている団体、家族、若者など、展示場は平日の午前でも、人であふれかえっている。
特別に開設された展示場では、大英博物館から、6体のミイラを中心に約200点がもちこまれ、展示されている。6体のミイラは、3,000年から1,800年前の時代を生きた個人たち(既婚女性、吟唱者、祭司、歌手、子供、若者)である。
CTスキャンなどの先端技術による病理学的見解、装飾品、壁画、食べ物など、展示物は多岐にわたっている。
それら展示物を見ながら、訪れる人たちは何を感じ、何に思いをはせ、何を考えているのだろう。
ぼくは以前、ロンドンの大英博物館で、これらのいくつかには出会っていたかもしれない。
でも、今考えてやまないのは、この「Eternal Life」、永遠の生という主題である。
1)「永遠の生」を希求すること
暗がりの展示場に足を踏み入れながら、ぼくは、「永遠の生」を希求したであろう人たちの、その生に思いをよせる。
ここの6人の人たちはどのような生をおくっていたのだろうか。
ミイラをつくり、それを見守り、その文化を支える社会はどのようなものであったのか。
人は何を恐れていたのか。
人はほんとうは何を希求していたのか。
永遠の生を希求する人たちの生は、何に支えられていたのか。
疑問と思考が、絶え間なく、ぼくにやってくる。
展示場を去ってからも、思考は古代エジプトの人たちによせられる。
古代エジプト展をみてから後に、社会学者・真木悠介の名著『時間の比較社会学』をひらく。
真木悠介は、「死の恐怖」というものを、まっすぐに見つめながら、こう書いている。
死の恐怖からの解放…われわれはこの精神の病にたいして、文明の数千年間、謝った処方を下してきたように思われる。まずそれを実在的に征服する試みとしての、不死の霊薬の探索やミイラ保存の技法といった技術的な解決の試行。第二にそれを幻想的に征服する試みとしての、肉体は有限であるが「魂」は永遠であるといった宗教的な解決の試行。そして第三に、それを論理的に征服する試みとしての、時間の非実在性の論証といった哲学的な解決の試行。…
真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店
真木悠介は、文明の数千年を見渡しながら「誤った処方」とする、
●技術的な解決の試行
●宗教的な解決の試行
●哲学的な解決の試行
をのりこえていく方向性を、次のように、書く。
…われわれがこの文明の病から、どのような幻想も自己欺瞞もなしに解放されうるとすれば、それはこのように、抽象化された時間の無限性という観念からふりかえって、この現在の生をむなしいと感覚してしまう、固有の時間意識の存立の構造をつきとめることをとおして、これをのりこえてゆく仕方でしかありえない。
真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店
このような「序章」ではじまる『時間の比較社会学』の世界に、こうして、ぼくはまた惹き寄せられてしまうのだ。
2)「軸の時代」(ヤスパース)と古代エジプト
人間が希求してやまない「抽象化された時間の無限性」の生成期として、見田宗介(真木悠介はペンネーム)は、カール・ヤスパースが「軸の時代」(枢軸時代)と呼ぶ時代を重ねる。
カール・ヤスパースは、著書『歴史の起源と目標』のなかで、この「軸の時代」という、歴史の素描を展開している。
ヤスパースは、紀元前800年から200年の間を「軸の時代」と呼んだ。
その時期に、キリスト教の基層となるユダヤ教、仏教、儒教のような世界宗教、古代ギリシアの「哲学」などが、一斉に生まれた。
それは、香港の展示場で展示されている、古代エジプトのミイラがつくられていた時期と重なる。
この「軸の時代」の社会的文脈として、見田宗介は、貨幣経済の成立と浸透、交易経済の成熟、都市化、共同体から外部に向かう生活世界などを見ている。
…貨幣経済と社会の都市化と共同体からの離脱と生活世界の<無限>化は、<近代>の本質そのものに他ならないから、<軸の時代>とは、「近代」の遠い起原、あるいは近代に至る一つの巨大な文明の衝迫の起動の時代に他ならなかった。
見田宗介「高原の見晴らしを切開くこと」『現代思想』Vol.42-16
そして、現代は、この<無限>が、再度<有限>に出会う時代である。
「巨大な文明」の岐路にある。
ヤスパースと見田宗介の「思考の交差点」(「軸の時代」と「無限性」)から、ぼくたちは、古代エジプトの人たちが希求した「永遠の生」をどのように見ることができるか。
古代エジプトの人たちが切実に希求した「永遠の生」とその根底にある「無限への希求」の行き着く先(あるいは転回)の時代に、ぼくたちは今、こうしておかれている。
人間が生きることのできる空間(とそれが産出する資源、環境)と時間は「有限」である。
グローバリゼーションとは、無限に拡大しつづける一つの文明が、最終の有限性と出会う場所である。
見田宗介「高原の見晴らしを切開くこと」『現代思想』Vol.42-16
3)「Homo Deus」(ユバル・ノア・ハラリ)と「不死」
しかし、人類の「永遠の生への希求」は、その「無限性」を、捨てていない(あるいは捨てることができない)。
ユバル・ノア・ハラリは著書『Homo Deus』で、人類が「次に見据えるプロジェクト」として、3つを挙げている。
- 不死(immortality)
- 至福(bliss)
- 「Homo Deus」へのアップグレード
人類は、無限が有限に出会う現代という時代において、「不死」(永遠の生)を、霊薬やミイラではない「技術的な解決の試行」の方向性に、突き進めていく道をも選ぶ。
古代エジプトで日常に見られたであろう「飢饉」や「戦争」を解決してきた人類は、しかし、「不死」の希求を捨てていない。
ぼくたちは、このような時代の只中に、おかれている。
ところで、ピラミッド=ミイラと考えがちだけれど、ミイラは裕福な者であれば作ることができたという。
しかし、真木悠介の名著『気流の鳴る音』の「序」の最後に置かれる、ピラミッドの話が思い起こされる。
真木悠介は、エジプトではなく、マヤのピラミッド(そしてその周りにどこまでも広がるジャングル)を目にしながら、次のような想念を書きとめている。
…ピラミッドとはある種の疎外の表現ではなかったかという想念が頭をかすめる。幸福な部族はピラミッドなど作らなかったのではないか。テキーラの作られないときにマゲイの花は咲くように、巨大な遺跡の作られないところに生の充実はあったかもしれないと思う。…
真木悠介『気流の鳴る音』筑摩書房
この文章を、自分の心に映しながら、ぼくも同じような想念を抱く。
そして、自分の中に、「ピラミッド(のようなもの)を希求する気持ち」と「ピラミッド(のようなもの)など希求しない気持ち」の二つが、共にあることを確認する。
それは、まるで、「生の充実を『誤った処方』で追い求める自分」と「生の充実を心に感じている自分」とが、せめぎあっているかのようである。
その「せめぎあい」の落ち着かなさを、ぼくは、古代エジプト展の展示物の存在に囲まれながら、感じていたのかもしれない。