結婚と「井戸掘り」。- ぼくが(想像上で)「河合隼雄と村上春樹」に会いにいく。 / by Jun Nakajima


日本の国外(海外)にそれなりに長くいると、逆に「日本」を考えてしまうようなところがある。
ホームシックなどとは違う。

海外にいると、日本の社会の中で「着なければならない」ような「衣」をぬぐことができる。
しかし、その「衣」をぬぐことで、いっそう、その内にある「日本的なもの」が日々の生活のなかであらわれてくる。

最近、ふと、河合隼雄氏の著作を読もうと思って、いくつか書籍を手に入れ、ページをめくっている。
心理学者であり、亡くなられる前には、文化庁長官も務められた河合隼雄氏。

河合隼雄氏は、ぼくが、ぼくの「思考の部屋」(頭の中)で、「(海外から)日本を考える会議」を開くときのメンバーである。
毎回ではないけれど、時に、参加していただく。

その他のメンバーは、例えば、社会学者の見田宗介氏、哲学者・武闘家の内田樹氏などである。
時に、村上春樹氏にも来ていただく。

ぼくの頭の中だからできる、「ドリームメンバーたちによる会議」だ。

今回、日本、日本の社会、日本の組織などを考えている折に、河合隼雄氏を「思考の部屋」にお呼びしたわけだ。


そうしたら、思いっきり「脱線」して、河合隼雄による「結婚・結婚生活」の定義に、惹かれてしまった。

そのトピックは、海外を旅し、海外にそれなりに長く住む中で共にしてきた本のひとつで、取り上げられていたトピックだ。

その本は、下記の本である。
 

河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫)


河合隼雄と村上春樹はアメリカに滞在していたときに出会った。
その二人の「のんびりとした語り(対談)」をまとめた本である。

対談は1995年。
日本では、阪神大震災やオウム事件が起きた年だ。
村上春樹は、小説『ねじまき鳥クロニクル』を完成させたところであった。

のんびりとした語りとはいえ、どのページも、立ち止まって、深く深く、考えさせられる。

"結婚と「井戸掘り」"と題される箇所は、一文字一文字に、立ち止まってしまう。

ぼくの知るかぎり、村上春樹が「結婚・結婚生活」について正面から語ることはあまりない。

心理療法に長年かかわってきた河合隼雄の、懐の大きさと、人間へのまなざしの暖かさを前にして、村上春樹は「おたずねしてみたかったんですけれど、」と、「夫婦」(の相互治療的な意味)について尋ねている。

『ねじまき鳥クロニクル』で、ようやく「夫婦」を書くことができるようになったばかりであったこともある。

その作品、また村上春樹が作品のなかでよく使う「井戸掘り」のたとえに触れながら、河合隼雄は、次のように応えている。
 

(河合)ぼくはあれは夫婦のことを描いているすごい作品だ、というふうに読んでいますよ。
ぼくもいま、ある原稿で夫婦のことを書いているのですが、愛し合っているふたりが結婚したら幸福になるという、そんなばかな話はない。そんなことを思って結婚するから憂うつになるんですね。なんのために結婚して夫婦になるのかといったら、苦しむために、「井戸掘り」をするためなんだ、というのがぼくの結論なのです。

河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫)
 

「苦しむための結婚」に触れて、村上春樹は、後日、注記を付している。


(村上)…河合先生の定義は、すごく新鮮で面白かったです。ただ、そういうふうにすっきり言われるとみんな困っちゃいますけどね。
僕自身は結婚してから長い間、結婚生活というのはお互いの欠落を埋め合うためのものじゃないかというふうにぼんやりと考えていました。でも最近になって…それはちょっと違うのかなと考えるようになりました。…
結局のところ、自分の欠落を埋めることができるのは自分自身でしかないわけです。…そして欠落を埋めるには、その欠落の場所と大きさを、自分できっちりと認識するしかない。結婚生活というのは煎じ詰めていけば、そのような冷厳な相互マッピングの作業に過ぎなかったのではあるまいかと、このごろになってふと思うようになっています。

河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫)
 

なお、河合隼雄は、対談で、「夫婦というのは『こんなおもろいことないんじゃないか』」ということも言っていることを、注記でも、繰り返しのべている。

のんびりとした対談は、日本のことも含め、あらゆるトピックにおよび、言葉の鋭さが随所に光っている。

河合隼雄は、この本のタイトルとは逆に、「河合隼雄が村上春樹に会いにいきたい」気持ちであったことを、「後書き」で書いている。

ぼくにとっては、「河合隼雄と村上春樹」に会いにいく、である。


その後、河合隼雄は2007年に他界。
村上春樹は、結婚生活をつづけ、作品を書き続けている。

『ねじまき鳥クロニクル』では、主人公の妻がいなくなってしまう。
20年以上を経て書かれた村上作品『騎士団長殺し』(2017年、新潮社)も、「夫婦」のことを描いている作品である。

『騎士団長殺し』においても、妻が結婚生活を終えたいときりだす。
ただし、小説は、「もう一度結婚生活をやり直すことになった」と「私」が過去をふりかえるところからはじまる。

村上春樹は、作家・川上未映子の質問に応える形で、「最初に結論」をおいたことを、はじめから企図していたことを語っている。(『みみずくは黄昏に飛びたつー川上未映子訊く/村上春樹語る』新潮社)

結婚生活という「冷厳な相互マッピングの作業」のなかで、自分の欠落を自分で確認し、自分で埋めていくしかない、と語った村上春樹が、20年を経て、結婚生活をもう一度やり直す物語『騎士団長殺し』を書く。

河合隼雄がもし生きていて、『騎士団長殺し』を読んだら、なんと語っただろうか。
『村上春樹、もう一度河合隼雄に会いにいく(2017年)』なんて本があったら、どんな本になっただろうか。

河合隼雄の声がきこえてくる。

結婚は苦しむためのもんや。
たいへんだけれど、「井戸」を掘らなければならない。
でも、こんなおもろいことないやろ。。。