哲学者の鶴見俊輔は、かつて、「結局のところ世界は、自分が自分の情熱を投げいれること(行動)によってしか、意味をながかえしてくれない」と語った(鶴見俊輔・久野収『現代日本の思想』岩波新書)。
鶴見俊輔の中から、しぼりだされてきたような言葉である。
鶴見俊輔がこう語るとき、念頭にあるのは、「戦後派」という1919年から1933年生まれの者(日本人)たちが体験した、「価値の無意味性」である。
…戦後派はもっとも深く敗戦の影響をうけている。それまで深く信じていたもろもろの価値が、あっという間に色あせ、何でもないしらじらしい理念になってしまうのを体験した。心の底のほうで、あらゆる価値の無意味性を信じている。両親も、兄弟も、天皇も、国家も、恋愛も、教養も、金も、神も。…
鶴見俊輔・久野収『現代日本の思想』岩波新書
このような圧倒的な無意味性を感覚させる「現実」ではないけれど、ぼくも、その片鱗を、世界の紛争地域で感覚してきた。
2002年、ぼくは、長年の紛争が終結したばかりの西アフリカのシエラレオネに降り立ち、難民支援と帰還民支援に奔走する。
電気がないから、ろうそくを灯して、夜中まで仕事を続けるような日々のなかに、ふと、空洞が生まれる。
そんなときに、「価値の無意味性」の深淵をのぞく。
2006年、東ティモールの騒乱で、銃弾がとびかう音を耳にし、日常生活が停止してしまったようななかに、ふと、同じような空洞が訪れる。
一時退避した日本で、ぼくは、この「価値の無意味性」の深淵を前に、生きることの物語を、なんとか支えようとする。
そして「東ティモールの騒乱を乗り越えて輸出されるコーヒー」という物語を一生懸命に紡ぎながら、コーヒーの輸出に向けて、奔走する。
日本における戦争の焼け野原という仕方ではないけれど、ぼくは、そんな深淵に、投げこまれることになった。
「現実」ではなくても、すぐれた小説や映像は、その深淵とそこからの帰還という旅路を、疑似体験させてくれる。
トム・ハンクス主演の映画『プライベート・ライアン』は、このような「価値の無意味性」の只中に置かれながら、その中に「1人の兵士の救出」という情熱を投げいれることの物語である。
井伏鱒二は、著書『黒い雨』のなかで、登場人物に、語らせる。
…今までして来たことが飯事であったように思われて、今までの自分の生活も玩具の生活であったような気がした。…
井伏鱒二『黒い雨』新潮文庫
今の現代社会は、このような生死を分ける体験を紛争という日常で生きざるをえない人たちと、また他方で対極に「虚構の現実」を生きている人たちを見ている。
「虚構の現実」に生きる人たちが、往々にして取る方法は、「どうせ何もかも飯事だから」という「投げやり」だ。
「情熱を追う」や「好きなことを追う」という方向性を見ながら、しかし、情熱も好きなことも、「投げやり」の延長線上に描かれてしまう。
『黒い雨』の登場人物は、「どうせ何もかも飯事だ」という地点から、「投げやり」にいくのではなく、生きるということの本質をみつける。
「飯事」という価値の無意味性の地点から、「どうせ何もかも飯事だ。だからこそ、却って熱意を籠めなくちゃいかんのだ」という情熱への反転を、生き方として得ていく。
鶴見俊輔も、あらゆる価値の無意味性を信じる「戦後派」が、体験の深さから得た、生きることの本質へと転回する仕方を語っている。
それが、冒頭の文章だ。
…心の底のほうで、あらゆる価値の無意味性を信じている。両親も、兄弟も、天皇も、国家も、恋愛も、教養も、金も、神も。結局のところ世界は、自分が自分の情熱を投げいれること(行動)によってしか、意味をなげかえしてくれない。かくて情熱のたえざる燃焼、熱烈な行動のつみかさねが必要となる。
鶴見俊輔・久野収『現代日本の思想』岩波新書
鶴見俊輔は、「情熱を投げいれること」を、深いところで、方法として取り出している。
無意味性が「投げやり」をつくるとは必ずしも言えない。
無意味性という「井戸の底」から、逆に、生きることの彩りを感覚し、見ることができるかどうかである。
生きることの彩りは、一色ではない。
苦悩から歓喜まで、何色にも彩色された、あるいは彩色することのできる、ひとつの<夢>である。