戦争や争いを「なくする」という、「否定の否定」という方法は、否定にいきつく他はないことを別に書いた。
だから、問題を「裂開」しなければならない。
例えば、芸人の西野亮廣は、「戦争は無くならない」という地点から出発して、「戦争は止めることはできる」ということを定め、エンターテイメントによる感動を武器とすることを見出す(西野亮廣『魔法のコンパスー道なき道の歩き方』主婦と生活社)。
戦争や争いを「減らす・減る」ということもできる。
戦争や暴力による死者ということであれば、統計数値上、減ってきていることが客観的に示されている。
歴史学者のYuval Harariは、そのことを著書『Homo Deus』で数値を示しながら指摘している。
また、Steven Pinkerは、著書『The Better Angels of Our Nature』で、主題的に取り上げている。
副題はまさに「Why Violence has Declined」(なぜ暴力は減少したのか)だ。
このことは、ぼくたちの「望み」である。
戦争を「止める」ということに戻ると、西野亮廣の『魔法のコンパス』を読みながら考えていたら、二つのことを思い起こした。
一つは、ジョン・レノンの曲だ。
ジョン・レノンの曲に、「Happy Xmas (War Is Over)」がある。
1971年にリリースされ、今でも、クリスマスの時期には必ずどこかで聞く歌だ。
ぼくの、とても好きな曲だ。
西アフリカのシエラレオネ、それから東ティモールという紛争後の社会に身をおきながら、ぼくの「心の耳」にリフレインしていた曲である。
ジョン・レノンとオノ・ヨーコが歌う後ろで、子供たちからなるコーラス隊がこんなふうに歌う。
…
war is over
if you want it
war is over
now…
John Lennon “Happy Xmas (War Is Over)”
戦争・争いは終わるよ、あなたが望めば、と。
当時ベトナム戦争に照準をあわせて歌われた歌だけれど、それは今の時代にも貫通する。
ジョン・レノンも、戦争・争いはなくすのではなく、戦争は「終える」/「止める」ことができることを伝えている。
それから、二つ目に思い起こす風景は、2006年12月の東ティモール。
2006年半ばに騒乱が起こり、首都ディリでは国内避難民が発生し、オーストラリア軍などが駐屯しながらも、争いが続いていた。
銃撃戦などの状況から日本に一時退避していたぼくも、すでに東ティモールに戻っていて、コーヒーを無事に出荷した後の時期であった。
争いや衝突が、小さい規模ながらも間断なく続いていた。
しかし、クリスマスを迎えたところで、争いが一時的に、止まったことを、ぼくは今でも覚えている。
首都ディリが、静かな夜に包まれたときであった。
東ティモールはカトリックの国で、クリスマスは大切なひととき。
人は望めば、争いの途中であっても、争いを止めることができるのだ。
人間が完全には壊れていないことに、ぼくは心の底で、安堵感を感じることができた。
戦争や争いはなくすことはできないけれど、終える・止めることはできる。
東ティモールの、あの「静かな夜」は、ぼくの心の風景に、今でも確かな感覚と共に残っている。
そして、「戦争・争いは終わるよ」という、子供たちのコーラスが、透明にこだまする。
あなたが望めば、と。
その声は、ほんとうに望むことができているだろうか、という「問い」を、ぼくに投げかけている。