香港で、台風上陸のなか、「リスク管理」を考える。- 不安と(何事もない)安堵のメンタリティ。 / by Jun Nakajima

香港の東の端に、台風が上陸した。

ちょうどこの文章を書き始めた頃に、台風は、香港の北の上空を移動している。

昨日から最も低いレベルの警報(シグナル1)が出ていたが、当初その上の警報(シグナル3)にはならないだろうという状況であった。

それが、夜半にシグナル3が発令され、今朝方の9時20分には警報がシグナル8へと、さらに一段階あがった。

シグナル8になると、例えば、交通機関が乱れたり、店舗が閉まったりと社会的な影響が出る。

今日は日曜日だけれど、平日ともなると、シグナル8号発令により、ビジネスが止まったりして大きな影響がある。

だから、「台風シグナル8」というリスクは、香港に住んでいる人たちの心身を動かす。
 

ひとつに、社会機能が一時的に止まるかもしれないという状況は、(程度の差はあれ)パニックを人の内面に起動する。

スーパーマーケットやパン屋などには、人が殺到したりする。

台風のシグナル8がでている時間は、1日未満である。

半日ほどで通常はシグナル3へとダウングレードされる。

それでも、食材などがスーパーマーケットの棚からなくなっていく。

もちろん、新鮮な食材への影響は、配送などの関係から2日ほど続いたりする。

そのようなことを「差し引いた」としても、人は、必要以上に食材をかいためているように見られる。

 

ぼくが、予備の食料品として買いためた経験は、2006年の東ティモールでの騒乱の「前夜」からである。

実際に、お米が一時期、スーパーマーケットからなくなるなどの事象が起きた。

東ティモールの「難しさ」は、輸入経路が非常に限定されていること。

だから、万が一のために、スタッフたちの分も含めて、一定期間やっていけるだけのお米を貯蔵したりした。

それは、実際に、後に、役立つことになる。

人の個体の維持という、「生物」としての人間の諸相が起動され、ぼくたちは万が一に備える。

今でも、この諸相はいつでも「起動」できる状態だけれど、台風というリスクにたいしては、ぼくは一歩距離をおいて、冷静に対処する。

 

ふたつめに、(何事もなかったときに感じる)安堵のメンタリティは、ときに、批判へと転回されることがある。

シグナル8が発令されても、ほとんど台風の影響が見られないようなときもある。

今日も、台風が上陸して(でも北に逸れながら)、風は静止したかのようで、雨だけが時折ふりそそいだ。

そして、(ぼくのいるところでは)何事もなく、シグナル8の台風警報は、発令から4時間後の13時20分に解除された。

 

ビジネスなどの「大切なこと」にもかかわるから、何事もなかったときは、途端に天気予報への批判になる。

「何事もなかったこと」への視線は、冷たい。

人間の「生物」としての諸相ではなく、自然から離陸した「現代」という人間の諸相が現れるのだろうか。

大事が起こらなかったことへの感謝ではなく、起こらなかったことによる時間・機会喪失のようなものを感覚する。

批判の矛先は、天気予報を管轄する政府機関であったりする。

しかし、実際には、「その地点」にいるぼくたちにはわからなかったりする。

政府機関の「判断」は、香港全体を視野にしていて、香港の一部ではない。

実際には、ぼくのいる「地点」からは見えず、他の場所や地域では被害が出ているかもしれない。

あるいは、少しの「差」が、甚大な被害につながるような状況であったかもしれない。

ぼくたちは、そのような「かもしれない」というリスクを、何事もなかったという時間と地理的な地点で、忘れてしまう。

 

不安と安堵のメンタリティの「揺らぎ」のなかで思うのは、やはり、リスクへの向き合い方は最終的に「自分自身」次第であるということ。

気象情報はあくまでも「外部情報」として、自分自身の内部にある「リスク管理の管制塔」にインプットをし、そこでリスクにどのように対処・対応するかを自ら決める。

また、日頃から、「リスク管理の管制塔」は、事前準備として予備訓練をし、いつでも起動されるために整備されていないといけない。

とくに、自分が生まれ育ったような「ホーム」ではなく、海外のような「アウェー」の場合はなおさらである。

 

そして、「不安と安堵のメンタリティの揺らぎ」は、生きてあることへの深い感謝に支えられながら、「予防対策」と「冷静な対応」という人間の知恵として、その形態と内実を変容させていくことで、ぼくたちは、この世界で、よりよく生きていくことができる。

「台風」という言葉がにつかないほどに、木々たちが緑色をたたえながら静かにそびえたち、雲たちが静かに流れ、コンドルが飛んでいる香港の風景を眺めながら、ぼくはそんなことを思う。