生きることの「両義性」を生きること。- 「自分をのりこえることはできるか」(見田宗介)の論考から。 / by Jun Nakajima


人の成長、ということを、生きていく上での大きなテーマのひとつとしながら、見田宗介の論考「自分をのりこえることができるか」に目が留まる。

『定本 見田宗介著作集X:春風万理ー短編集』に所収の論考で、もともとは『教育の森』(毎日新聞社)という雑誌に掲載された文章である。

論考の「軸」としては、ふたつの論・立場が取り上げられている。

●エリク・エリクソン:「漸成的発達段階論(epigenesis)」

●実存主義:根本テーゼは<実存は本質に先立つ>

エリクソンの「発達段階論」は、大学の「心理学」の入門的な講義で習った記憶が、ぼくにはある。

日本でもよく知られた理論であろう。

エリクソンは、人間の誕生以後の人間形成という心理・社会的な関係のプロセスについて、乳児期・初期児童期・遊戯期・学齢期・青春期・若い成人期・成人期・成熟期という「八つの発達段階」を設定している。

それぞれの段階に、「達成されるべき発達課題」や「達成にとって重要な人間関係の範囲」が設定されている。

見田宗介は、エリクソンのこの発達段階論から「教えられるところが多いことはいうまでもない」としながらも、客観的に、こう書いている。

 

…けれども同時に、考えてみると、これはおそろしい思想でもある。それが真実であるかぎりでは、それはおそろしい真実である。なぜならば、それは人間は自分で自分を自由にのりこえて進むことができない存在だ、ということを意味しているからである。

見田宗介「自分をのりこえることができるか」『定本 見田宗介著作集X:春風万理ー短編集』

 

このエリクソンが、「実存主義」に反発を感じ、見田宗介は論考のもうひとつの軸として並べる。

実存主義によれば、(見田の簡潔なまとめによると)人間にはのりこえ不可能な本質などなく、自由に、自分という人間を選んでいくことができ、だからこそ、そのことにたいして責任をもたなければならないという考え方である。

実存主義による「自分をのりこえることができる」という考え方と、エリクソンによる「自分をのりこえられない」資質といった考え方が対峙する。

この対峙に間隙を丁寧にさぐりながら、見田宗介は、両者の「微妙なすれちがい」は、実存主義は人間を自分のこととして内側からみていること、他方エリクソンは、人間を愛情と責任をもって外側からみていることにあると、述べている。

見田宗介は、そうして、次のように、論考の最後の段落を書いている。

 

 エリクソンと実存主義という、それぞれに真摯な生き方の二つの思想の反発し合う構図から、われわれにとってみえてくるのは、<つくられるもの>としての人間と<自分をつくるもの>としての人間という問題、事実性としての人間と自由としての人間との両義性であり…。

見田宗介「自分をのりこえることができるか」『定本 見田宗介著作集X:春風万理ー短編集』

 

人間は、<つくられるもの>と<自分をつくるもの>の二つを、また事実性と自由を、それらのどちらかではなく、同時に生きている。

このことは、敷衍して言えば、「人の育成」ということとも関連する。

人を育成できるか否か、という議論は、その構図だけで見れば、ここに見られる構図と同型である。

育成できるかという問いのナイーブさは、<自分をつくるもの>としての人間への畏れのようなものを胚胎している。

 

生きていくことの「両義性」を、そのままでひきうけることを、見田宗介という真摯で孤高の社会学者はあらゆるところで語っている。

この論考の最後は、人を育てるという「教育」という現場の「教師」に向けられ(だからこそ、見田宗介自身に向けられ)、次のように書かれる。
 

…<教育>という問題に即していえば、責任をもって対しなければならない幼い他者たち、若い他者たち、という人間と、みずからの親や教師に責任を転嫁してはならない自由な主体性、としての教師である<わたし自身>との、生きられるべき両義性である。

見田宗介「自分をのりこえることができるか」『定本 見田宗介著作集X:春風万理ー短編集』

 

原的な「両義性」をみつめながら、それらの「生きられるべき両義性」を生きていくことに、ぼくたちの生はかけられている。
 

見田宗介(真木悠介)が、フランスの思想家バタイユに依拠しながら、別のところで語っている<創られながら創ること>という言葉は、生きられるべき両義性を生きることで、自分をのりこえていく精神を、シンプルに、しかし深いところで照らし出している。