ぼくの信頼する心理学者である(今は亡き)河合隼雄の仕事のひとつ、『母性社会日本の病理』(講談社学術文庫)は、その最初の形は1976年に執筆され、20年ほどの年月を経て文庫版となった。
そして、それからさらに20年ほどの年月を経て、ぼくはこの著作を手に取る。
文庫本用の序文を河合は書いているが、その後の河合隼雄の「考えの発展の基礎」となったという、数々のエッセイがまとめられている。
1965年にスイスのユング研究所から帰国してから、心理療法の臨床経験のなかで、河合隼雄は日本人の特性について考えをめぐらし、ようやく形となるまでに10年ほどを要したという。
その「成果」として書かれた文章たちが、この『母性社会日本の病理』には収められており、今の時代にも(あるいは今の時代だからこそ)、ぼくたちのなかに、限りないほどの思考の芽を点火してくれる。
ぼく個人のことで言えば、海外で仕事をしてきながら、「日本人の特性」ということについて考えざるをえない状況に置かれてきた。
だから、少しまとめておきたいと思う。
タイトルにあるように、思考の手がかりとして、河合隼雄は「父性原理」と「母性原理」という考え方、その二つの原理の相克を立てている。
父性原理と母性原理のバランスの取り方により、社会や文化の特性がつくりだされていくという考え方の上に、河合は分析をくわえている。
父性原理と母性原理は、前掲書における河合隼雄の記述をもとにまとめると、次のようなものだ。
●父性原理:「切断する」機能。すべてのものを切断し分割する(例:主体と客体、善と悪、上と下)。(子供をその)能力や個性に応じて類別(「よい子だけがわが子」)。
●母性原理:「包含する」機能。良きにつけ悪しきにつけ包む込み、そこではすべてのものが絶対的な平等をもつ。(子供をその)個性や能力とは関係なく、「わが子であるかぎり」すべて平等に可愛いとする(「わが子はすべてよい子」)。
それぞれにおいて、「肯定的な面」と「否定的な面」があり、例えば、次のようなこととされている。
●父性原理:肯定的な面は、強いものをつくりあげてゆく建設的なところ。否定的な面は、切断の力が強すぎて破壊に至る。
●母性原理:肯定的な面は、生み育てるもの。否定的な面は、呑みこみ、しがみつき、死に至らしめるもの。
この二つの対立原理が、道徳や宗教、法律などの根本において、融合しながら、どちらかが優位に立ち、どちらかが抑圧されていると、河合は語っている。
その上で、日本社会は、「母性優位の心性」をもつとされる。
河合隼雄は、さらに思考の軸として、「場の倫理」(母性原理に基づく倫理観)と「個の倫理」(父性原理に基づく倫理観)を、論考のなかにひきいれている。
前者は、「場」の平衡状態の維持に高い倫理性を与え、後者は、個人の欲求の充足、個人の成長に高い価値をおく。
河合は、その上で、「現代日本の社会情勢の多くの混乱」の原因を、これらの倫理観の相克のなかの状況に見定めている。
現代日本の社会情勢の多くの混乱は、…父性的な倫理観と母性的な倫理観の相克の中で、一般の人々がそのいずれに準拠してよいか判断が下せぬこと、また、混乱の原因を他に求めるために問題の本質が見失われることによるところが大きいと考えられる。
…現在の日本は「長」と名のつくものの受難の時代であるとさえいうことができる。つまり、長たるものが自信をもって準拠すべき枠組みをもたぬために、「下からのツキアゲ」に対して対処する方法が分からず、困惑してしまうのである。
河合隼雄『母性社会日本の病理』(講談社学術文庫)
さらに「組織」の視点において、「場の平衡状態を保つ方策」としての「成員の順序づけ」をとりあげ、文化人類学者である中根千枝の有名な「タテ社会」の人間関係と関連づける。
河合隼雄は、ここで大切な指摘をしている。
…「タテ社会」という用語を、権力による上からの支配構造のような意味で用いる…これはまったく誤解である。
タテ社会においては、下位のものは上位のものの意見に従わなければならない。しかも、それは下位の成員の個人的欲求や、合理的判断を抑える形でなされるので、下位のものはそれを権力者による抑圧と取りがちである。ところが、上位のものは場全体の平衡状態の維持という責任上、そのような決定を下していることが多く、彼自身でさえ自分の欲求を抑えなければならぬことが多いのである。
このため…日本では全員が被害者意識に苦しむことになる。…実のところは、日本ではすべてのものが場の力の被害者なのである。
河合隼雄『母性社会日本の病理』(講談社学術文庫)
「場の倫理」をのりこえようとして飛び出す人たちも、そこに「日本的な場」をつくってしまうことから、「場」は集団の凝集性を強めてしまい、さらに「場の倫理」がつよくなる。
このような状況のなかで、日本人は母性原理からなかなか抜け出せず、父性原理に基づく自我を確立することを困難としているという。
なお、河合隼雄は、父性原理が優位であるのがよいとか、母性原理が優位であるのがよいとかを述べているわけではない。
スティーブン・コヴィーの最後の著書(『The 3rd Alternative』)のように、「第三の道」を開く方途を、河合隼雄はまなざしている。
河合隼雄の分析と視線、そして明晰な記述は、海外の日系企業が直面する問題や課題とも交差してくる。
例えば、こんなふうに、語る。
グレートマザー的な絶対平等感を基礎として、それに「永遠の少年」の上昇傾向が加わるとき、日本人のすべてが能力差の存在を無視し、無限の可能性を信じて上にあがろうとする。ここに日本のタテ社会の構造ができあがってくるのである。
…父性原理に基づく社会は、西洋の近代社会のように、上昇を許すけれど、そこには「資格」に対する強い制度をもち、能力差、個人差の存在を前提としている。このため、欧米の社会においては、各人は自分の能力の程度を知り、自らの責任においてその地位を獲得してゆかなければならない。この厳しさは日本人にはおそらく、なかなか理解できないものであろう。
河合隼雄『母性社会日本の病理』(講談社学術文庫)
河合隼雄がこの文章を書いたのは、冒頭で述べたとおり、1976年のことであるが、問題や課題の現象面で言えば、それから40年後の今も、同様の状況を至るところに見ることができる。
日本社会の「外」に身をおき、そして「外」における日本社会をみつめて考えながら、河合隼雄の生きられた問い(留学、ユング研究所などの海外を生きてきた河合隼雄が切実に抱いた「問い」)とその探索の過程で得たこれらの文章は、グローバル化した今の時代だからこそ、丁寧に読まれる必要があると、ぼくは思う。
そうすることで、今すぐここに「解決」をもたらすものではないけれど、文化や社会の間の「差異のロジック」を深いところで理解し、自身を客観視し、そこから自身の「生きられた問い」を発していくための堅固な土台つくりとなる。
その堅固な土台は、いっときの「解決」をもたらす以上に、より豊饒な「人と人との関係」をつくるための思考と実践の源泉となるような足場である。