大学進学で「専攻」を決める際に感じていた違和感ととまどい。- 真木悠介著『現代社会の存立構造』で得たヒント。 / by Jun Nakajima


大学進学において「専攻」を決めなければいけないという、生きることの「岐路」のひとつで、ぼくは違和感ととまどいを覚えていた。

ひとつには、多くの人たちがそうであるように、やはり「将来やりたいことがつかめない」ということ。

実際の「経験」という土壌が不足していたことが原因のひとつであろうけれど、このことは、大学進学においてだけでなく、その後の人生においても幾度も立ち止まるときがやってくる問題である。

違和感ととまどいのもうひとつは、文系における専攻の選択において、「社会の科学」か「人間の哲学」か、という大きな分かれ目を前に感じるものであった。

当時、この「大きな分かれ目」で感じたのは、このどちらかに引き裂かれるような思いであった。

シンプルに言えば、前者は「将来お金になる」学問であり、後者は「将来お金にならない」学問という認識を原因とする、引き裂かれる思いであった。

社会の科学は、経済や経営、社会や法律などの、客観的にみられる法則などを学ぶ学問で、「将来ビジネスとして使える」学問である。

他方、文学やアートなどの「人間の哲学」は、大人たちの「眼」からは、「お金にならない」学問だ。

文学やアートなどの「人間の哲学」は、ぼくにとっても「生きられる問題系」であった。

しかし、ぼくという自己」は大人たちの「眼」を内側に強く引き込み、その「眼」は、ぼくに「将来お金になる」学問を強くすすめるような強い視線を、意識のなかで投げかけていた。

ぼくの解決は、この引き裂かれる思いのなかで、外国語という言語の選択であった。

それは、使い方によっては、「将来(ビジネスに)役にたつ」学問であり、他方では文学などの「人間の哲学」のための学問でもあった。

このように、ぼくのなかでは、「社会の科学」と「人間の哲学」は、二つの大きく異なる学問という認識であった。

 そして、「役に立つ・役に立たない」という次元だけで語ることのできない違和感ととまどいが、ぼくのなかに残っていた。 

 

大学に入ってのち、「社会の科学」と「人間の哲学」という二つの視点を統合するような見方(パースペクティブ)を与えてくれたのは、社会学者・真木悠介の著作『現代社会の存立構造』(1977年)という、硬質な著作であった。

真木自身が語るように、難しい議論で、誰にも読まれないような著作だから、見田宗介=真木悠介の「著作集」からは外された仕事である(2014年、大澤真幸の解題がつけられ復刻版が朝日出版社から出された)。

社会学者である見田宗介=真木悠介の著作群に出会うなかで、過去の著作を片っ端から読み返している内に、ぼくはこの『現代社会の存立構造』に出会った。

この著作の全体は、確かに一筋縄では太刀打ちできず、「格闘」が必要であったが、その「序」の部分だけでも、ぼくの「見方」を変えてしまうのに充分であった。

 

「社会科学へのプロレゴーメナ」と副題がつけられた「序 存立構造論の問題」において、「人間の哲学」と「社会の科学」の二つの視点の「相互疎外」、それから「問題のたて方」自体の問題ということを述べている。

まず、「社会」は、日常の意識において、対象的=客観的に、そこに確実にある「もの」のように、「私=個人」からは感覚されることが語られる。

「社会」には客観的な法則があって、「個人」は法則を理解し利用することで利益を得たりあるいは失ったりする。

ぼくたちには、日常で、このように感覚する。

しかし、この「自明性」自体を問題としながら、「近代社会諸科学」が何を問い、何を答えてきたかと、真木悠介は考察する。

出発点は「近代理性(分析理性)」である。
 

…分析理性こそはまさしく、近代社会における諸個人の存在形態に直接的に適合する理性の形式であるから、分析理性的な諸科学は「近代社会の自己意識」として、必然的に市民社会の支配的な社会諸科学である。
…近代社会諸科学の主題の骨格をなしているのは、対象的=客観的に存立する社会諸形象(商品・貨幣・資本・利子率・国家・官僚制・法・道徳、等々)と、その運動として成立する対象的=客観的な諸法則である。そしてこれらの法則をその「運命」または「利益」として身にこうむる主体の生の現実性は、「文学」あるいは<実存>の哲学等々の主題としてその体系から疎外される。このことは根拠のないことではない。なぜならば近代社会は、まさしく対象的=客観的な物象として存立し完徹する社会的諸形象および社会的諸法則を、現実にその構造の骨格となすからであり、個々の主体はこれをただ身にこうむりつつ、せいぜいこれを「利用」し「操作」することを試みる偶然性として、そして同時に「内面的には」自己絶対化された「私」の個別性として、したがって挫折する「実存」の悲劇性として、現実に存立するからである。

真木悠介『現代社会の存立構造』(筑摩書房)

 

「社会の科学」と「人間の哲学」との分裂の把握と乗り越えの方途について、真木悠介は、マルクスの仕事から取り出している。

「マルクス」という名前には、すでにそこにさまざまな「主義」や偏見や感情がぬりこめられているけれど、それらを取り除き、真木悠介は、マルクスの仕事を土台に『現代社会の存立構造』を展開している。

マルクスの仕事にも依拠しながら、「社会の科学」と「人間の哲学」との分裂という、凝固した「客体−主体」図式を、問題化する。

例えば、「国民経済学」は、私有財産がたどる物質的な過程を一般的・抽象的な公式で「法則」として語るけれど、このような「法則」がどのように私有財産の本質から形成されるかは語らない。

真木悠介は、この例をあげながら、次のように述べている。

 

 ここでは既成体としての事実に内在し、物象化された事実を立脚点とする分析理性の方法にたいし、これらの「物質的な」諸形象・諸法則をその生成の論理において解明し把握する、弁証法的理性の方法が端的に対置されている。

真木悠介『現代社会の存立構造』(筑摩書房)

 

「物象化」とは、「事物・のように・なること」である。

事物と(感じられるように)なった「社会」ではなく、事物のようになる過程そのものに焦点をあてることが、方法として取り出されるわけである。

 

 物象化された対象性としての「法則」の客観的な認識としての「社会の科学」と、疎外された主体性としての「実存」の主観的な表出としての「人間の哲学」を相互に疎外し、それぞれの内部をさらに、部分的な函数関係や部分的な意味連関へと分解する分析理性の問題のたて方(プロブレマティーク)とは逆に、弁証法的な理性は、このような双対性の地平そのものの存立の構造の問いへ、具体的には、対象的な社会諸形象の「法則的」な存立の機制、したがってまた、主体的な精神諸現象の「実存的」な存立の機制そのものを対自化する問いへ、問題機制(プロブレマティーク)そのものをまず転回する。

真木悠介『現代社会の存立構造』(筑摩書房)

 

ぼくが大学の「専攻」を選択するということに感じていた違和感ととまどいは、近代理性・分析理性とそれに支えられた近代社会諸科学、それから近代社会の現実に存立する仕方に、根拠をもつものであったということである。

ぼくは、あらかじめ、違和感ととまどいを感じるように仕掛けられていたともいえる。

ぼくの違和感ととまどいは、マルクスや真木悠介が正面から主題化し、その問いを「社会の存立構造」にまでひろげていった問題意識とつながっていたわけだ。

その展開は、マルクスの『資本論』であり、真木悠介の『現代社会の存立構造』という著作になる。

 

ここではこれ以上ふみこまないけれど、「もの」のように見える「社会」と「個人」の二元論を、端的に超える見方を最後にみておきたい。

マルクスは、人間の本質は「社会的諸関係の複合的総体(アンサンブル)」と述べている。

真木悠介は、その人間=社会把握に触れて、こう書いている。

 

 歴史の主体=実体は、「個人」でも「社会」でもなく、「つながりあう諸個人」の「相互につくり合う」関係そのものである。ここには原子論と全体論、方法的「個人」主義と方法的「社会」主義との同位対立の地平を端的に止揚する、あるがままの事態の実相に定位する人間=社会了解の境位が示されている。

真木悠介『現代社会の存立構造』(筑摩書房)

 

ぼくは、見田宗介=真木悠介に出会い、勇気付けられてきた。

ぼくが感じていた違和感やとまどい、問題意識などが、「あってもよいもの」だということ、それを透明に追い求めてもよいのだということに、肩をおされる。

見田宗介=真木悠介は、『現代社会の存立構造』後も、主体ー客体、個人ー社会、そして「社会の科学」と「人間の哲学」という分裂と相互疎外をこえる視点と視野で、人と社会を論じてきた。

「現代社会」という「ハードな問題系」を書きながら、その裏にはいつも人の内部問題である「ソフトな問題系」を意識している。

逆も然りである。

そのような問題意識と方法、そして人と社会に向けられる「冷静な頭脳」と「温かい心」が、ぼく個人はもとより、人と社会の未来の道ゆきに照明を照らしてくれている。