ロックバンドのレディオヘッド(Radiohead)のアルバム『OK Computer』が名盤として時代をつくった1997年から20年が経過した。
レディオヘッドは20周年を迎えた2017年、『OK Computer OKNOTOK』というアルバムを世におくりだした。
1997年の『OK Computer』のリマスター版、曲のシングル盤に収められた曲、それから未発表曲と、23曲を収録している。
未発表曲の「I Promise」は素敵な曲だ。
ボーカルのトム・ヨークは、この曲を、オリジナルの『OK Computer』に収録しなかった理由は、「われわれはその曲が十分によいとは思わなかったから…」と語っている。
ぼくは、個人的には、アルバム『OK Computer』はそれ自体でひとつの完結性・完全性をつくっていたから、他の曲が十分によくても、その完全性をくずしてしまうことが理由ではなかったかと、勝手に思っている。
少なくとも、ぼくは『OK Computer』というアルバムのひとつの宇宙が好きだし、それと同時に、未発表曲の「I Promise」も好きだ。
それはそれとして、「lose myself」ということを、レディオヘッドを出発点にして、その可能性を書こうと思う。
1)レディオヘッドの曲「Karma Police」における「lose myself」
レディオヘッドの名盤『OK Computer』には、「Karma Police」(カーマ・ポリス)という変わった名前の曲が収められている。
「カーマ・ポリス、この男を逮捕してくれ」と始まる歌詞は、少し気だるい曲調と共に、決して明るいものではない。
歌詞の意味も、語られる以上のことは、不明瞭だ。
そのような曲「Karma Police」は、最後の方で転調し、トム・ヨークはこんな風に叫ぶ。
For a minute there
I lost myself, I lost myself
For a minute there
I lost myself, I lost myself
Radiohead “Karma Police” 『OK Computer』
オリジナル版が出た1990年代後半、ぼくは、この「lost myself」が気になっていた。
「lost oneself」は、辞書(※下記は英辞郎)で引くと、概ね3つの日本語訳となる。
- 自分を見失う
- 道に迷う
- 夢中になる、没頭する
トム・ヨークが「Karma Police」を歌うとき、それは1の意味と感情で歌われているのだろうけれど、ぼくには少し違うように聞こえたのだ。
先取りしておけば、第一に、「自分を見失う」ことの先に開かれる可能性ということ、そして第二に、「夢中になる」という意味合いである。
日本語訳の1と2は否定的な意味合いであるのに対して、3は反対に肯定的な意味合いをもっている。
2)「夢中になる」ー フロー状態(チクセントミハイ)
昨今、創造性やピークパフォーマンスが注目されるなか、心理学で「フロー」と言われる精神状態とその条件が見直されている。
もともと、心理学者のミハイ・チクセントミハイ(Mihaly Csikszentmihalyi)が提唱した概念である。
簡潔に言えば、人が完全に集中し、活動にのめりこんでいるような状態のことを言う。
まさに、「夢中になる」状態のことである。
自分というものを忘れて(失って)、集中する体験である。
チクセントミハイは、1990年に、フローを体系的にまとめて著作を出した。
それが、最近の創造性・クリエイティビティなどが注目されるなかで、よく言及されるようになっている。
Steven Kotlerの著作『The Rise of Superman: Decoding the science of Ultimate Human Performance』や『Stealing Fire: How Silicon Valley, the Navy SEALs, and Maverick Scientists Are Revolutionizing the Way We Live and Work』などは、チクセントミハイの「フロー」を現在的な文脈で追っている。
いずれにしても、「自分を見失う」という経験が、ここでは、肯定性に転回されている。
3)エクスタシー論(見田宗介=真木悠介)
社会学者の見田宗介=真木悠介は、著書『自我の起原』の「7.誘惑の磁場」という章の中で、「Ecstacy」について次のように書いている。
…われわれの経験することのできる生の歓喜は、性であれ、子供の「かわいさ」であれ、花の彩色、森の喧騒に包囲されてあることであれ、いつも他者から<作用されてあること>の歓びである。つまり何ほどかは主体でなくなり、何ほどかは自己でなくなることである。
Ecstacyは、個の「魂」が、〔あるいは「自己」とよばれる経験の核の部分が、〕このように個の身体の外部にさまよい出るということ、脱・個体化されてあるということである。…
真木悠介『自我の起原』岩波書店
「生の歓喜」は、「自己」とよばれる経験の核の部分が、個の身体の外部にさまよい出るという経験である。
つまり、いかほどか、自分が自分でなくなるような経験である。
見田宗介=真木悠介は、このことに、生物学という地点から、辿りついている。
4)<にんげんがこわれるとき>(宮沢賢治)
見田宗介は、このような「自我の解体」ということを、宮沢賢治の詩にみている。
宮沢賢治『小岩井農場』のなかに、ふしぎな言葉がでてくる。
幻想が向ふから迫ってくるときは
もうにんげんの壊れるときだ。
宮沢賢治『小岩井農場』
「にんげんのこわれるとき」という経験は、自分をなくす経験である。
しかし、その「自我の解体」は、肯定性により転回されている。
見田宗介は、宮沢賢治の『青森挽歌』の詩に、この詩人の「肯定的な転回」をひろいだしている。
感ずることのあまり新鮮にすぎるとき
それをがいねん化することは
きちがひにならないための
生物体の一つの自衛作用だけれども
いつまでもまもつてばかりゐてはいけない
宮沢賢治『青森挽歌』
「いつまでもまもってばかりいてはいけない」と、宮沢賢治は書いている。
自衛のために「自己」を保つぼくたちだけれど、いつでも、そうであっては広い<世界>にでていくことはできない。
「lose myself」は、ひとつの方法である。
体験のなかに、夢中になって没入していくことで、体験を体験として感じとることができる。
このように、「lose myself」は、「夢中になる」という仕方で、肯定性を身に帯びることができる。
他方、ぼくたちは、生きるという経験のなかで、「lose myself」という痛い経験にさらされることもある。
自分を見失い、道に迷い、ぼくたちは途方にくれる。
自分が自分ではないように感じ、心を痛め、脱力感にみまわれ、身体に異常をみる。
しかし、それは、必ずしも、ぼくたちを否定性の世界に導くものではなく、それは「肯定性の道しるべ」でもある。
「lose myself」の行く末に、これまでとは異なる「myself」をつくりだすこともできる。
その地点から振り返ってみると、これまでの「myself」がとても小さい檻に閉じ込められていたことを知ることになる。
宮沢賢治の声がきこえる。
…いつまでもまもってばかりいてはいけない。