これからの世界は、「時空間のひろがり」のなかで、人が描く生きる物語を書き換えてゆく。
空間のひろがりは、グローバル化を原動力としながら、今後はその「深度」をふかめていく。
時間のひろがりは、「豊かな国々」においては、「人生100年時代」へと拡張していく。
「人生100年時代」においては、「高齢化社会・高齢社会」といわれている言葉と内実も、かわっていく。
英国BBCの記事「In pictures: Photographer 'in awe' of older athletes」を読みながら/見ながら、そこに「未来」を見て、そしてよくいわれる「高齢化社会・高齢社会」ということへと、ぼくの思考は引き続き、「生きる物語」の書き換えを続けている。
「高齢化社会・高齢社会」ということを、まずはみておく。
総人口にたいする、65歳以上の高齢者人口の占める割合(高齢化率)をみて、高齢化率が「一定の数値」を超えていると、これらの「カテゴリー」が適用されることになる。
●「高齢化社会」(ageing society):高齢化率が7%を超える社会
●「高齢社会」(aged society):高齢化率が14%を超える社会
●「超高齢社会」(Hyper-aged society):高齢化率が21%を超える社会
これらのカテゴリーから見ると、日本は、高齢化率が20%後半であり、現在すでに「超高齢社会」にある。
ここ香港も「高齢化」が進展し、「高齢社会」となっている。
英国BBCの記事を見ながら考えていたことのひとつは、「高齢化社会・高齢社会」の高齢化率の基準値は、現実にそぐわなくなりつつあるということだ。
さらには、「高齢化社会・高齢社会」というコンセプトと響きそのものがもつ<怖さ>のようなものだ。
ぼくたちは、日常でこのような用語を使っているけれど、その語りの<残酷さ>には気づかずに、使ってしまっている。
「高齢化社会・高齢社会」という用語が含意する「意味合い」は、よく語られるところでは下記の懸念である。
- 経済成長の鈍化への懸念
- 高齢者を支える社会への懸念
「高齢者」とは、社会学者の見田宗介がいうように、現代の社会システムの「福祉」という観点から見ると、<労働する能力のないもの>とくくられるカテゴリーだ。
「福祉」という、現代の「豊かな国々」のシステムが対象とする人びとは、労働する機会のない人びとと、労働する能力のない人びとである。後者には、傷病者心身障害者、児童と高齢者がふくまれる…。<労働する機会のないもの>と<労働する能力のないもの>という実際上の対象規定は、現代の社会のシステムの原理上の欠落を補充するものとして、完璧に論理的である。「必要」を「需要」に翻訳するパラメーターは貨幣を所有することであるが、(特別な資産を保有するのでない限り)労働する機会か能力の欠如は、この翻訳するパラメーターの欠如にほかならないからである。…
見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書)
「労働する(生産する)」現場にいるものたちから見ると、「ふつうのこと」「対処すべきこと」として語られる「高齢化社会・高齢社会」は、「福祉」の対象となるような<労働する能力のないもの>にたいする、残酷なまなざしも、その内に宿している。
「高齢化社会・高齢社会」ということを、懸念や問題としてしまう、その社会システムの土台をいま一度、明確に理解しておく必要がある。
だから、「次にくる(時空間のひろがった)時代」は、このような「まなざし」をのりこえるようなところに構想される必要があるように思う。
BBCの記事は、あくまでも象徴的にということだけれども、このような「まなざし」をこえる地点をさししめているように、ぼくには見えたのだ。
60歳も70歳もいわゆる「高齢」ではなく、コミュニティや社会を楽しみながら活性させ、他者たちによる「支えられる」ということが犠牲の感覚のもとになされるのではない地点である。
なお、例えば「人生100年時代」という言葉にも気をつけていかなければならない。
高齢者を支えるための費用を極力抑えるための言説として、利用されてしまう可能性があるからだ。
なにはともあれ、「次にくる(時空間のひろがった)時代」は、ぼくたちの生きる物語を、根底から変えていく力を、その内にためている。
その時代とそれぞれの生の物語を、不安で迎えるのではなく、ワクワクで迎えることができるかどうかに、ぼくたちの「現在」は問われている。