それぞれの社会に流れる<時間>、つまり人びとの振る舞いや動き、人と人とのやりとりなどに感じられる総体としての<時間>は、それぞれの場所で異なって現れる。
ブログ『異なる「時間の流れ」の中に身をおくこと。- 世界は「いろいろ」に現象する。』(8月16日)にて書いたように、例えば「海外」という異なる社会に身をおいたときに、その社会の「時間の流れ」は、いろいろに感じられる。
それは、ぼくに「感覚としての自由」を与えてくれる。
しかし、他方、現実問題として、異なる社会の間で「仕事」をするようなとき、共通の「(時計的な)時間」のもとで、「いろいろに現象する時間感覚」は、フラストレーションの源泉ともなることがある。
1日24時間という「時間」を基準として仕事をしながら、しかし、Aという場所での「時間の流れ」とBという場所での「時間の流れ」が異なる。
それぞれの場所にいる人たちは、自分たちのいる場所の「時間の流れ」を、当たり前のこととして仕事をし、相手側の「時間の流れ」を感じることができないことから、「時間の流れのギャップ」が生じる。
ぼくが、東ティモールで仕事をしているときは、よくそんなことを感じた。
「途上国」的な時間の流れ、その流れで人や組織が動くようななかで仕事をしながら、日本とのつながりのなかで「日本的な時間の流れ」が仕事に混入してくる。
それは、具体的な仕事の流れから、自分のマインドセットに至るまで、自分(また組織)の仕事のいろいろなレベルにおいて影響を与える。
「東ティモールという外部環境」のなかでは、その時間の流れにあわせて動いたりしながら、他方で、コンピューターや電話越しに対峙する「日本という外部環境」のなかで、日本的な時間の流れにあわせて動いていく。
そのように、自在に行き来する柔軟さが求められる。
また、香港で仕事をしてきて、今度は香港と日本それぞれの時間の流れの相対性のなかに置かれる。
この相対性におけるギャップは、時間はもとより、そこに付随するような仕事の仕方など、重層的に影響を与えることから、フラストレーションがたまる。
香港という、実行・実施におけるスピードの速い社会においては、そこの断面における、日本の(判断・決断や実行の)「遅さ」が浮かびあがってくる。
異なる社会の「間」で仕事をしていくなかで、「(時計的な)時間」の共通尺度のもと、それでもそれぞれの社会に流れる<時間>を自由に行き来することが大切だ。
「(時計的な)時間」という共通尺度をもったこと、またその全世界的な浸透ということは、現代のグローバル化の素地を用意したことであり、それはぼくたちの「世界」をひらいてきた。
今こうして、世界で仕事をし、世界を旅し、いろいろな人たちと会ったりコミュニケーションがとれるのも、この「(時計的な)時間」のおかげである。
しかし、それぞれの社会には、それぞれに内的な<時間>が流れている。
そのことは、ときに、ぼくたちに「世界はいろいろに現象する」という<自由な感覚>を与えてくれるけれど、他方で、何か共通のものを一緒に目指すときには<困難な感覚>と現実的な困難の源泉ともなることがある。
グローバルに生きてゆくということは、これらの意味において、「タイム・トラベラー」になるということでもある。
仕事における日々の「タイム・トラベル」は大変だったりするけれど、それでも、「タイム・トラベル」は、総体としては自由の感覚をぼくに与えてくれる。
そして、ひとつの社会の「時間の流れ」ともうひとつの社会の「時間の流れ」という<相対性>のなかで、ぼくたちは「相対化の力」を手に入れることができる。
つまり、ひとつの社会が「絶対的なもの」ではなく、それを相対化してみせることで、社会や組織、それからひとりの人の生き方にいたるまで、「世界をひらいていくこと」の契機としていくことができる。