ドイツの劇作家・詩人・演出家であったベルトルト・ブレヒトの反民話(あるいはメタ・メルヘン)を、社会学者の見田宗介はとりあげている。
それは、このような反民話である。
<むかしはるかなメルヘンの国にひとりの王子様がいました。王子様はいつも花咲く野原に寝ころんで、輝く露台のあるまっ白なお城を夢見ていました。やがて王子様は王位について白いお城に住むようになり、こんどは花咲く野原を夢見るようになりました>
見田宗介『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社)
ここに見られる<白いお城>と<花咲く野原>から、見田宗介は「世界のあり方」を考えている。
1986年に、論壇時評のひとつとして書かれた「白いお城と花咲く野原」と題される文章で、それはそのまま書籍のタイトルともなった(なお、この書籍はその後圧縮されて、見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫として出版された)。
上にあげたブレヒトの『メルヘン』について、ドイツ文学者の今泉文子は「近代合理性の中で『骨抜きにされ、薄められた』メルヘンに対する風刺」であると解釈するのにたいし、見田は、<近代>と<前近代>との「幻想の相互投射性」ともいうべきものへの洞察として、より普遍的にとらえている。
ブレヒトの『メルヘン』は…世界のあり方についての洞察である。<白いお城>と<花咲く野原>の、相対性原理。世界がメルヘン的なのだ。
見田宗介『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社)
「隣の芝生は青い」という幻想の一方向性ではなく、ここでは「相互」に投射する「相対性原理」が述べられている。
自分がいま立っている、まさに「ここ」は、外部の他者たちが「夢見る」場所であるかもしれない。
ぼくは、「幻想の相互投射性」ということを、以前、「旅(非日常)と日常」ということの文脈で考えはじめた。
大学のときに一歩を踏み出した「アジアへの旅」を通じて、ぼくはたくさんのことを体験し、そして考えた。
東京の日常にいると、旅への幻想がつのっていく。
逆に、アジアへの旅に出ていると、日本の日常がいとおしくなってくる。
そんな「幻想の相互投射」をくりかえしているうちに、いまいる「ここ」は、他者たち(いまの自分ではない自分を含め)が「夢見る」ところだと、感覚しはじめた。
そのことは、旅という文脈だけでなく、都会と田舎、(見田がいうように)近代と前近代などなど、あらゆる「相対」のものの真実であるのだ。
「白いお城」だけがメルヘン的なのではない、「花咲く野原」だけがメルヘン的なのではない。
<白いお城>も<花咲く野原>も、メルヘン的なのだ。
見田宗介が語るように、これが「世界のあり方」である。
だから、この「世界のあり方」のなかで、どのような幻想(物語)を生きていくのかというところに、ぼくたちの生き方の選択は向けられる。
それにしても、「白いお城」と「花咲く野原」があれば、ぼくはどちらも楽しみたいと思う。
ここ香港は、「白いお城」と「花咲く野原」がいっぱいにひろがっている。
都会と自然があり、お城の生活をおくりながら、野原をかけめぐることができる。
ここも例外なく、幻想の相互投射がいっぱいにはりわたされている空間だ。