片岡鶴太郎著『50代から本気で遊べば人生は愉しくなる』。- 確かなところに「降り立つ」生き方。 / by Jun Nakajima

仕事に出かけたり画を描きはじめる時間からさかのぼって6時間前に起きるという片岡鶴太郎の「一日の過ごし方」に興味をもって、片岡鶴太郎の著作を読む。

『50代から本気で遊べば人生は愉しくなる』(SB新書)と題された著作の帯には、次のように書かれている。

・ほんの少しの習慣で「定年後」を謳歌する!

・モノマネ芸人、ボクサー、役者、画家、書家、ヨガ。幾つもの顔をもつ逸楽の達人に学べ!

著作の内容から考えると、タイトルと「定年後」という言葉は(読者層が意識され)若干とってつけた感があるが、著作を通じて片岡鶴太郎の生きてきた軌跡が語られている。

子供のころから、芸人を目指した日々、有名になっていく過程、プロボクサーを目指した経緯、画家になった物語、そして今に至る「片岡鶴太郎」が語られ、そこに通底するエッセンスを取り出してつくられたのが、この著作である。

ぼくがテレビのブラウン管にみていた芸人としての片岡鶴太郎は、その後、役者・プロボクサー・画家としても生きていく。

そんなメディアニュースを耳にしながら興味をおぼえていたけれど、こうして、その経緯とそこに込められた気持ちや生き方を正面から「聞く」のは、この著作においてであった。

 

目次は次のとおりである。

【目次】

序章:“ものまね”からスタート
1章:62歳、まだまだやりたいことだらけ
2章:画家として立つ
3章:「思い」を「実行」に移す
4章:どうやって身を立てるか
5章:自分の魂を喜ばせるために何をするか
6章:新たなことをはじめる勇気
おわりに

いくつかのエッセンスをひろっておきたい。


1)「ものまね」

「ものまね」を喜びとし芸としてきた片岡鶴太郎は、こんな「提案」をする。
 

「本気で遊べば人生は愉しくなる」
そのために、まずはものまねをしてみてはいかがでしょうか?

片岡鶴太郎著『50代から本気で遊べば人生は愉しくなる』SB新書


片岡鶴太郎は、よく使われる「守破離」の「守」にふれている。

師弟関係の基本を説く言葉の「守」は、まず師匠の「型をまねる」ということからはじまる。

「自分がほんとうにしたいこと」と「まねるという学び」を追い求める先に、よろこびの花が咲くところを生きてきたのが片岡鶴太郎であった。

「追い求める」は、片岡自身が述べるように、反復の連続である。

そして、「守破離」は、師匠の型を破り、独自性の境地へと「離陸」する思想であり言葉であるけれど、片岡鶴太郎は離陸しながらも、確かなものに「降り立つ」ことを生き方としてきた人であると、ぼくは思う。

 

2)「魂の歓喜」

確かなものとして、片岡鶴太郎が語っているのは「魂の歓喜」である。

「魂」という言葉は使い方がむずかしい。

それが語られる場や状況によっては、そこに特定の価値観や前提があるように感覚されるからである。

しかし、おそらく、片岡鶴太郎はやはり、そのようにしか語ることができないような「広い海」のただなかで、生きているように見える。

 

ひとつ気をつけておきたいのは、片岡鶴太郎は、著書のなかで、魂の歓喜は、新しいことにチャレンジした「先」に待っているギフト(贈り物)だと書いている。

それは、自分のなかの(自分を歓喜させる)「芽」が芽吹いてもたらされるとしている。

つまり、「結果」としての贈り物だというふうに書いている。

著作全体を読んだあとに、ぼくが感じた「片岡鶴太郎」は、しかし結果だけに歓びをみているわけではない。

その「過程」も(苦しさとたくさんの悩みとともに)楽しんできたように、ぼくは感じる。

 

この著作のコアなメッセージは、ここに焦点している。


「おまえは芸人として、役者として成功したから、そんな呑気なことが言えるんだろ」と叱られるかもしれません。それでも私はこう言いたい。
 もっと根源的に自分の魂を喜ばせるために何ができるかを追い求めましょうよ、と。私自身が昔も今も追い求めているものは、ただその1点のような気がします。

片岡鶴太郎著『50代から本気で遊べば人生は愉しくなる』SB新書
 

「ただその1点」と、片岡鶴太郎は語っている。


3)「土台」つくり

「ただ1点」としての「魂の歓喜」の追求を支えるものとしての、生きることのいわば「土台」をつくっていくことにたいして、片岡鶴太郎は敏感だ。

それは「基礎」つくりと呼んでもいい。

例えば、料理にチャレンジしているなかに、「画を描くこと」と「料理を作ること」の共通点をみつけていく。

「このコツ」は「あのコツ」と同じじゃないかという、スキルやマインドの「深い地層」の部分での接続を、つねに意識しながら、活動の反復をくりかえす。

そんなエピソードがちりばめられている。

そして、反復をくりかえす片岡鶴太郎は、(1章の扉に彼の「書」が置かれているように)「無我夢中」である。

「無我」の言葉通り、自分をなくす地平に向かって、圧倒的な集中の状態(フロー状態)の「夢の中」におりてゆくのだ。

 

さて、冒頭に記した「ぼくの(もともとの)興味」にも触れておきたい。

現在62歳の片岡鶴太郎の一日は、仕事や画を描く前の6時間前の起床(早朝3時や4時)にはじまる。

朝はヨーガ(呼吸法、ヨーガのポーズ、瞑想)にはじまる。

これら一連の活動に3時間近くかかる。

そして、水シャワーを浴びて、朝食にうつる。

「一日一食」の食生活を継続している片岡鶴太郎は、それを朝食にあて、玄米・野菜・フルーツ・豆などの種類も量も多い朝食に2時間をかけるという。

それから身支度で、6時間。

朝9時から画を描いたとして、8~9時間ノンストップで描き、それからシャワーを浴びて、夜7時・8時には寝るという。

「また明日も画が描ける」という気持ちで眠りにつき、朝起きるのが楽しみで仕方がないという。

どのように生きるのかという、その多様性を、片岡鶴太郎はぼくに開示してくれている。

 

20代後半のあるとき、有名になったけれど「とんでもなく醜い人間を鏡の中に見た」片岡鶴太郎は、自身との対話の末に、こう決める。
 

「どんなに小さな河でもいい、たとえ獣道でもいい。自分の道を探そう」

片岡鶴太郎著『50代から本気で遊べば人生は愉しくなる』SB新書

 

役者、プロボクサー、画家として「自分の道」をひらいていくことになる決意が、そのようになされたことを、ぼくは今になって知る。

「あとがき」の最後に置かれる言葉、「汝の立つところ深く掘れ、そこに必ず泉あり」のように、その後、片岡鶴太郎は一層「深く掘る」ことを日々としていく。

必ずある「泉」を信じて、確かなところに「降りてゆく」思想であり生き方である。