国際協力・国際支援・国際援助・途上国支援・開発協力などの言葉の磁場にひきつけられるように、20歳頃のぼくは、その「広大な領域」に足を踏み入れていった。
でも、思い出してみると、それ以前に、ぼくは「国際」という言葉が触発する世界のイメージに強いあこがれを持っていた。
そしてそんな言葉を深掘りしてみると、(争いはあっても)戦争のない世界を、子供の頃から強く希求していたことに思い至る。
そのような世界をほんとうにつくりたいと希求し、その「手段」として、国際協力などの領域を、仕事としていくことを定めたのが大学のときであった。
しかし「定めた」と言っても、その広大な領域は圧倒的に広い世界であって、専門性が求められる中の揺らぎが続いた。
それでも、学べるところから、とにかく学んでいった。
大学院を終えて、NGO/NPOで働くという「縁」を得ることになった。
911後の世界の混迷の中で、同僚はアフガニスタンやイラクに駐在し、ぼくは西アフリカのシエラレオネに降り立った。
長年に渡る内戦が終了したばかりのシエラレオネで、国連の平和維持活動が継続される中、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)と共に緊急支援を展開した。
こうして、ぼくは、緊急支援・国際支援の「現場」に入っていくことになる。
シエラレオネの現場に入っていくことで、それまでに志していた、「国際」「国際支援」「戦争のない世界」といったキーワードが、ぼくの生の中で、<焼き鳥の串>にささるようにつながっていった。
当時は、そんなことを考えている余裕もなく、シエラレオネの現実と仕事の厳しさに立ち向かうことで精一杯であった。
それでも、ぼくが大切にしてきたことの「土台」は、シエラレオネで出会う人たち一人一人(いろいろな人たちだ)に、きっちりと向き合うことである。
その人たちにとってみれば、「日本人のイメージ」は、ぼくを通して形作られていく。
ベネディクト・アンダーソンが著書『想像の共同体』でどれだけ鮮やかに、国というものが「想像の共同体」であることを説いても、あるいは同様に吉本隆明の「共同幻想論」をもちだして語ろうとも、現実には「国」があたかも「モノ」であるように確固としたものとして存在しているように、多くの人たちには感じられる。
こうして、言説は「国というカテゴリー」からはなかなか自由になれない。
そのような現実の中、ぼくは出会う人たちに真摯に向き合ってきた。
それは、「国際」「国際支援」「戦争のない世界」といった<焼き鳥の串>にささったキーワードにからめられている、<焼き鳥のたれ>のようなものだ。
<たれ>がなかったら、それらはまったく味気ないものになってしまう。
世界で出会う人たちに真摯に向き合うこと。
それは、ただ仲良くすることとはイコールではない。
一緒に<生きる>こと。
戦争のない世界をめざしたり、国際協力・国際支援などを実践していくことの、はるか「手前」のところで、ぼくが大切にしてきたことである。