中秋節を10日後ほどに控え、至るところが月餅で彩られる香港は、暑い日差しが差しながらも、香港のはるか南を通り過ぎていく台風の影響もあってか、やや強めだけれど気持ちのよい風が吹いていく。
季節の移り変わりを感じさせる青空と雲が、ぼくたちの頭上に、ひろがっている。
風が雲を急ぎ足にさせて、頭上にひろがる風景は万華鏡のように、そのデザインと色合いを変えていく。
まるで、青空のキャンバスに、自然が織りなす「アート」のライブショーを見ているようだ。
香港の晴れた午後に、エクササイズとしてのウォーキングに出かける。
強めの風を肌に受けながら、空に浮かぶ雲は刻々と姿を変えていく。
30度を超える夏日だけれど、風が吹き抜けていくため、暑さは気にならない。
時折、小さな雨雲がよこぎっては、少しの雨粒をおとしていく。
雨雲がさり、真白い厚い雲の出番となり、雲の合間から日差しが勢いよく差してくる。
その内に、厚い雲が青空のキャンバスの脇によせられ、青空が顔を出す。
青空には、白い絵の具をつけた絵画の筆を勢いよく無造作に走らせたような雲が描かれている。
その風景の<美の重力>を感じて、歩みをとめ、空を見上げる。
<美の重力>は、視界を地球の中心に向けてではなく、地球の外部に向けて、ぼくをひっぱっていく。
まるで宇宙にいて、宇宙から地球を見ているような錯覚をおぼえる。
見上げながら、空と雲と風と太陽などが織りなす「アート」に惹き込まれていた妻が、顔を上げたままに、ふと口にする。
「(通りがかりの)他の人たちも、私たちにつられて、空を見上げるかしら。」
彼女はそのまま空に見入っていて、ぼくが周りに目を向ける。
ジョギングをする人たち、歩いている人たち、サイクリングをしている人たち、話し込んでいる人たちなどが視界に入ってくるけれど、ぼくの視界の中では、誰も空を見上げてはいなかった。
「誰も見上げていないね。」
ぼくは言葉を返しながら、ライブショーを続ける空へと再び目を向ける。
空は三日月をうっすらと描き、そして、小さくなって飛んでいく飛行機も描き足していく。
「アート」は刻一刻と変わっていく。
そろそろ、見るのをやめないと。
ぼくは心の中でつぶやく。
<世界の見方>を間違わないように。
頭上に描かれる「アート」は、ライブショーをひとまず終わらせようとしていたのだ。
まぶたの裏に、終わりの風景が焼き付けられないように、「終わる」前に、ぼくは目を離さなければと思うのだけれど、どうしてももう少し見ていたいと思ってしまう。
あやうく「終わる」ところで、ぼくは目を空にひろがる「アート」からそらすことができた。
再び歩きはじめて、空に白く厚い雲がおおっていくのを、目の端がとらえる。
ぼくのまぶたの裏には、あの「アート」が残っていて、<美の重力>の余韻も感じられる。
その余韻の中で、香港にひろがる青空の彼方へと、ぼくはひきこまれていく。
有限な地球の中で、じぶんが無限にひらかれていくのを感じるひとときである。