世界のいろいろなレストランで食事をしてきた。
思い出深いレストランのひとつを取り上げると、東ティモールのディリ市内にあった「廃墟のレストラン」である。
正確には、廃墟の建物が「レストラン」となっていた。
廃墟は、コンクリートがむきだしで、屋根はなく、破壊された建物の壁と柱が、かろうじて建物の形態をふちどっていた。
2002年に独立した東ティモールは、さかのぼること1999年に、独立に関する住民投票を行なった。
その結果、事実上の独立が決まると、インドネシア併合維持派は民兵により破壊活動へと走った。
ぼくが東ティモールに入った2003年頃、破壊された建物がまだ見受けられた。
「廃墟のレストラン」は、そのように破壊された、首都ディリ郊外の建物のひとつであった。
そこの家族が、破壊された建物を残したままで、レストランを開業していたのだ。
「レストラン」とは、別に「建物」を意味するとは限らない。
そこに、食事を提供する人たちがいて、食事をとる人たち(カスタマー)がいて、食事があって、サービスがあれば、「レストラン」になる。
「廃墟のレストラン」は、夜に「レストラン」となる。
廃墟のひとつの部屋(部屋といっても部屋があったであろう空間である)に、長テーブルが出される。
外が次第に暗くなり、ろうそくがテーブルと、そこに着席している人たちを灯す。
料理は、以前はポルトガル領であったこともあり、ポルトガル料理的なものが並ぶ。
廃墟で、屋根はなく、壁もあってないようなものだから、星たちが頭上にのぼり、周囲の静かな気配が直に伝わってくる。
難点は「蚊」で、コイルの蚊取り線香が足元で、煙を一生懸命にたいている。
ぼくたちは、レストランで食事をとりながら、東ティモールのこと、そこでの支援活動の話などを語る。
当時はとても平和な東ティモールであって、独立闘争や民兵による破壊活動がなかなか想像しにくいほどであった中で、「廃墟」という空間は困難な歴史を伝え続けていた。
レストランのオーナー家族が「廃墟」を残していることの目的のひとつも、歴史を忘れないことであったかと記憶している。
しんみりとしてしまうこともあるのだけれど、そのように生きている人たちに勇気づけられ、翌日、チャレンジングな支援活動にまた立ち上がっていったものである。
料理はおいしかったと思うのだけれど、それ以上に、その空間とそこに生きる人たち、一緒に東ティモールで支援活動を行う人たちなどとの総体としての体験として、東ティモールの「廃墟のレストラン」は、ぼくの中に記憶されている。
2006年に、首都ディリなどが再度騒乱になげこまれてから、ぼくが東ティモールを去る2007年初頭まで、ぼくが再びこのレストランに行くことはなかった。
あれから、この「廃墟のレストラン」がどうなったかはわからない。
わからないけれど、ぼくを含め、そこを訪れた人たちの心の中に確かに記憶として残っていると思う。
困難な歴史を刻印づけながらも、しかし一歩でも未来に向かって歩む人たちの存在を、ろうそくの光が灯しながら。