レストランで食事をしているとき、隣のテーブルの男の子(おそらく7歳前後)がぼくのいるテーブルの方向に向けて、水の入っているコップを倒した。
隣のテーブルの机にコップの水と氷がこぼれ、隣のテーブルとこちらのテーブルの間にも少し水がとびちった。
その男の子のお母さんが、たしなめるように、隣の席で子供に声をかけ、テーブルをふく。
しばらくして、その男の子は二つのテーブルの間を行き来し、向かいに座っている兄弟と思われる男の子のところに幾度も足を運ぶ。
ときおりこちらのテーブルと椅子にぶつかりそうになるから、ぼくはそのたびに注意を向けることになる。
ふと横を見ると、お母さんはスマートフォンの画面に目をおとしていた。
このような場面に遭遇し、ぼくは整体の創始者と言われる野口晴哉の「教え」を思い出していた。
…「お客様の前で何です」と言ってたしなめ、子供の行為を抑える。これが、子供にもっと騒ぎたくなるように仕向けることになる。それはお客様がきている間は、子供の行動にお母さんの全身の注意が向いているからです。
野口晴哉『潜在意識教育』全生社
勝手な解釈だけれど、レストランのテーブルで、男の子がぼくのいるテーブルの方向にコップをたおしたのは、お母さんの注意を集めるためである。
その行為により叱られようが、目的は注意を集めること。
その目的は達成されたわけである。
産まれてくるとき、人間はすぐに歩けるわけでもなく、生きることを他者に完全に委ねる。
野口晴哉は次のように書いている。
子供は元来大人の注意によって生活している。自分で生活してゆく力を持たない赤ちゃんの状態で産まれてくるというのは、大人の注意によらなければ育たないということである。だから子供が親の注意を得ようとするのは、大人のようなお化粧ではなくて生活の手段である。子供は頭で感じる以前に体で感じている。注意が少なければすぐに空虚を感じる。お客様が来た時に騒げばお母さんの注意が集中するが、おとなしいと注意が集まらないとなれば、子供は騒がずにはいられない。…
野口晴哉『潜在意識教育』全生社
子供が親の注意を得ようとすることは「生活の手段」であると、野口は書いている。
養老孟司が言っているように、都市は「脳化=社会」であり、頭で作られた場所である。
子供はその中での「自然」でもある。
「頭で感じる以前に体で感じる」ものとしての子供たち。
そして、野口も書いているように、大人も、「我ここにあり」と、人の注意を喚起するような方法をいろいろに発明する。
こんな風な「視点」で見ると、ぼくたちの「周りの風景」は、違ったように見えてくる。