ぼくたちが生きるということは、だれしもが「物語」を生きている。
そのことは、「夢」を生きているような人にとっては、夢という物語があるから見えやすいし、実感がある。
でも、普通に生きているなかでは、なかなか見えなかったりする。
映画やドラマや小説が「物語」であって、ぼくたちの生それ自体が「物語」であるとは感じにくかったりする。
生きていく上での「ライフステージ」が変わるような場面においては、それまでの人生を振り返り、これからの人生を見据えていくなかで、人生のストーリーが見えたりする。
あるいは、他者に、じぶんのことを語る際に、ストーリーが構成されていく。
あるいは、じぶんの目標を立てたときに、未来から現在をみるなかで、ストーリーが構築される。
小さい物語も大きい物語も含めて、ぼくもいろいろな仕方で、ぼくの「ストーリー(物語)」を確かめてきた。
その中で、「物語」ということが、まるで目の前に形あるものとして存在しているかのように見た経験は、2006年、東ティモールの首都ディリでの騒乱を契機とした出来事であった。
街の治安がくずれ、銃撃戦が近くで繰り広げられる。
これまでの「風景」が、あっという間に、「違った風景」に変わってしまう。
これまでの「風景」をつくっていたような、価値や概念や考えのようなものが、くずれていくような感覚におそわれる。
国外退避し、日本に一時帰国してからも、この感覚はぼくにつきまとうことになる。
東京の風景さえもが、違った風景のように見える。
東京の安全な風景の中で、ぼくは遠隔で、治安が不安定な東ティモールで活動を続ける組織をマネジメントしながら、風景はいっそうゆがみをましていく。
そのような日々に、「物語」がいとおしい感覚、「物語」がなくてはならないような感覚が、ぼくの中で強く立ち上がってきたのだ。
日本に帰国してから、毎日のように、ぼくは渋谷の本屋さんに立ち寄っては、そこでさまざまな本に目をやる。
本屋さんは、本の数だけ「物語」に充ちた空間なのだ。
小説だけではなく、それが新書であったり、料理や雑学の本であっても、ぼくは、そこに「物語」を感じる。
ぼくは、じぶんの中の空虚を埋めるかのように、本のタイトルに目をやった。
本のタイトルから、そこに語られる物語を想像した。
いろいろな著者が、それぞれに、物語を語っている。
とてもつまらないタイトルであっても、それらがとてもいとおしく感じるのであった。
大きな本屋さんに立ち寄ることもあれば、列車が発車するまでのわずかな時間に、駅に隣接する小さな本屋さんにも立ち寄った。
本に向かいながら、ぼくはぼく自身と会話をし、そこに、生きることの物語性を感じていた。
生きることの「物語性」が、実感をともなって、ぼくの中に浮かびあがった日々である。
生きることの「物語性」を考えながら、ふと思い出された出来事である。