『漫画 君たちはどう生きるか』(原作:吉野源三郎、漫画:羽賀翔一)が多くの読者を獲得している。
1900年代前半(原作の出版は1937年)の日本の東京を舞台に、主人公である本田潤一(コペル君)と叔父さん(おじさん)が、人生のテーマ(世界、人間、いじめ、貧困など)に真摯に向き合いながら、物語が展開していく作品だ。
この『漫画 君たちはどう生きるか』によって、はじめてこの作品を知ったぼくは、原作を読みたくなり、原作を手にした。
原作『君たちはどう生きるか』の岩波文庫版には、丸山真男(丸山眞男)が1981年に書いた「追悼文」が付載されている。
丸山真男は今ではあまり知られていないかもしれないけれど、さまざまな人たちに大きな影響を与えてきた、政治学者・思想史家である。
その丸山真男が、吉野源三郎の追悼文として、雑誌「世界」の依頼で「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」を書いた。
丸山が20代でこの本を読んだときの「震え」と、晩年に読み返して筆をとったときの「明晰さ」が、この文章に詰められていて、とても興味深い。
丸山真男がこの本と出会ったのは、研究者として一歩を踏み出したときであった。
…自分ではいっぱしのオトナになったつもりでいた私の魂をゆるがしたのは、自分とほぼ同年輩らしい「おじさん」と自分を同格化したからではなくて、むしろ、「おじさん」によって、人間と社会への眼をはじめて開かれるコペル君の立場に自分を置くことを通じてでした。
丸山真男『君たちはどう生きるか』をめぐる回想、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波文庫
この「点」を起点として、そこに立ち入って述べていくことで、丸山真男は、吉野への追悼と名著の紹介を果たそうとする。
ぼくの問題関心から、ここではひとつだけ取り上げるとすれば、「主体・客体関係の視座の転換」である。
原作の第一章「へんな経験」で展開される、銀座のデパートメントストアの屋上での出来事。
漫画版においても、原著においても、とても印象的なシーンである。
丸山真男はそのシーンをつぶさに読み解いている。
潤一が屋上から銀座の通りに目をやりながら「見る自分」と「見られる自分」とを感じる場面、またおじさんが手紙でふれる「コペルニクスの地動説」にふれながら、丸山真男は「主体・客体関係の視座の転換」ということを明晰に述べている。
…世界の「客観的」認識というのは、どこまで行っても私達の「主体」の側のあり方の問題であり、主体の利害、主体の責任とわかちがたく結びあわされている、ということーその意味でまさしく私達が「どう生きるか」が問われているのだ、ということを、著者はコペルニクスの「学説」に託して説こうとしたわけです。認識の「客観性」の意味づけが、さらに文学や芸術と「科学的認識」とのちがいは自我がかかわっているか否かにあるのではなくて、自我のかかわり方のちがいなのだという、今日にあっても新鮮な指摘が、これほど平易に、これほど説得的に行われている例を私はほかに知りません。
丸山真男『君たちはどう生きるか』をめぐる回想、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波文庫
この回想には、前に述べたように、丸山真男の「震え」と「明晰さ」が共につめこまれている。
丸山真男が書いているとおり、『君たちはどう生きるか』は、いつの時代にも変わることのない問いかけとなっている。
実際に、原著が出てから80年を経ても、その問いの色合いは決してあせることのない新鮮さで、ぼくたちの前に提示されている。
回想の最後に、丸山真男はこんなことを書いている。
…すくなくとも私は、たかだかここ十何年の、それも世界のほんの一角の風潮よりは、世界の人間の、何百年、何千年の経験に引照基準を求める方が、ヨリ確実な認識と行動への途だということを、「おじさん」とともに固く信じております。…
丸山真男『君たちはどう生きるか』をめぐる回想、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波文庫
1981年に書かれたこの文章は、そのまま、この現在においても、力強く光を放っている。