西欧近代の原動力となった「プロテスタンティズムの倫理」(マックス・ウェーバー)との対比の中で、日本近代の原動力となった精神を「立身出世主義」に見る、社会学者の見田宗介。
その論考「「立身出世主義」の構造ー日本近代化の<精神>」(『定本 見田宗介著作集Ⅲ』岩波書店に所収)は、発表から50年を経過した今でも、ぼくたちの思考や議論に光を与えてくれる。
日本の外で、日本・日本人なるものを考えながら、そしてだからこそじぶん自身の底流をまなざす中で、この論考は一層、ぼくの内面にひびいてくる。
明治という時代は、人を家柄等ではなく「能力と業績」によって位置づけるという、斬新な考え方を素地にスタートした。
それは「噴出する上昇欲求」となって秩序をおどろかす恐れがある中で、支配層は「秩序とエネルギーを両立させる方途」を探ったと、見田宗介は論を展開していく。
そして、噴出する上昇欲求の体制秩序への「誘導水路の根幹」となったものとして、「学校制度」とそれを基盤とする「官員登用のルート」であったという。
しかし、「官員登用のルート」は、上層にいる人たちをすくうのみであり、小学校だけしかいけない層をすくいとることはできない。
このような民衆のエネルギーを開発しつつ、同時に、秩序の中におさめておく企てにおいて、準拠とされたのが、「二宮金次郎」であったと、見田は指摘している。
このように、上層と下層にいたって形成されてきた「立身出世主義の性質」として、見田宗介は3つのことを挙げているが、その最初におかれたのが、「プロセスにおける倫理化」である。
それは、プロセスにおける「心構え」の重視による倫理化という性質を帯びる。
当時の雑誌などの丹念な読み込みの内に、見田宗介は、この性質を丁寧に論じている。
「成功」のオピニオンリーダーたちは、少年たちの志がいたずらに高くなることを戒め、「ステップ・バイ・ステップ」を伝える。
「心構え」が強調されていく。
底辺から頂点にいたる現実の上昇ルートが限定されればされるほど、能動的な民衆の意欲の開発による社会的エネルギーの調達は、現実認識ときりはなされた抽象的な精神主義にますます依存せざるをえない。
見田宗介「「立身出世主義」の構造ー日本近代化の<精神>」『定本 見田宗介著作集Ⅲ』岩波書店
上層においては、現実に「上昇ルート」を登っていくことの原動力となる「心構え」としての精神。
他方で、それは、下層においては、異なる機能を発揮していく。
…無限の上昇への幻影の供与によって、底辺の上昇欲求を体制秩序の内部において燃焼せしめ、障害の意識と不満はこれを内攻して自罰化せしめ、支配層によって好ましい方向にのみエネルギーを流しこむメカニズムとして、いっそう虚偽性のつよいイデオロギーとしてあった。
そしてこのように、体制の上下において相呼応しつつ、それぞれの地位に応じて機能する「精神」(心構え!)をバネとする、立身出世主義の全構造こそ、日本型資本主義の急速な発展をその方向に推進してきた内面的な動力であった。
見田宗介「「立身出世主義」の構造ー日本近代化の<精神>」『定本 見田宗介著作集Ⅲ』岩波書店
明治時代という特定の時代のことであり、それがそのままの形で現代を特色づけるものではないけれど、日本型資本主義を駆動してきた「内面的な動力」はそれでも、現代の日本の社会と人に、今でも、その性質をいくぶんか残しつつ、残響をひびかせているように、ぼくには感じられる。
また、明治という時代は、実は、それほど遠くない過去であったとも、ぼくは最近よく思う。
日本の外で、来たる時代との接続・トランジションにある中で、ぼくはそんなことを考えている。