東京から、西アフリカのシエラレオネ。
シエラレオネから東ティモール。
東ティモールから香港。
その道のりは、ふりかえると、東京を発ってから15年を超える。
それぞれの場所で、それぞれの社会やコミュニティに身を置きながら、ぼくのなかで「ひとつの光」となって、社会やコミュニティをみる「視点」となっていたことがある。
その「視点」を、ぼくは、東京にいたときに読んだ、真木悠介の名著『気流の鳴る音』のなかで教えられた。
1970年代半ばにメキシコに約1年住んでいたときの体験をもとに、真木悠介は「メキシコ社会」について、書いている。
私が感動したのは、だれかを招くと、必ずその恋人や兄弟や友人などの、たのしい「招かれざる客」たちをつれてくることだ。二人を招くと五人で現れる。このようにして関係の波紋はひろがり、目もあやに重畳しながら、いつかそれなりの厚い真実の地平を形づくってしまい、そこからの別離が身を裂くかなしみとなっていることにあとになって気付く。
真木悠介『気流の鳴る音から』ちくま学芸文庫
このような「招かれざる客」からひろがっていく関係の波紋は、日本(の都会?)ではあまりないから、真木悠介の「感動」はぼくにも伝わってくる。
さらに、ぼくのなかに印象付けたのは、真木悠介が引く、オクタヴィオ・パスの「分析」であった。
この開放性と人恋しさの背後には、植民者や混血者たちの存在のふたしかさからくる孤独の深層があるという、オクタヴィオ・パスの分析を私は鋭いと思う。
真木悠介『気流の鳴る音から』ちくま学芸文庫
1970年代半ばのメキシコ社会は、16%が白人、55%がメスティーソ(混血)、29%のインディオから成っていて、インディオの社会には、上述の「開放性」は一般にないと、真木悠介は指摘している。
こうして、ぼくのなかで、オクタヴィオ・パスの<暖かいまなざし>と鋭い分析が、強烈にのこることになる。
開放性と孤独の深層という図式だけではなく、人や社会をみるときの「姿勢」のようなことをぼくは教えられた。
この暖かい視点は、東京から西アフリカのシエラレオネに向かっていくなかでも、ぼくのなかに確かにあった。
しかし、そこでぼくが出会ったのは、また異なる「深層」であったようにも、ぼくは思う。
紛争という世界を通り抜けてきた人たちの「深層」である。
それは歴史的な時間の長さに刻印された「層」ではないけれど、紛争という世界の、言葉にならず、また時間にも置き換えることができないような<長い時間>に刻印された「層」である。
まだぼくのなかでも渦巻いている「層」である。