解剖学者である養老孟司は、都市や社会といったものが「頭」で構築されていく(養老孟司が言う「脳化=社会」が形成される)過程で「こぼれおちてしまうもの」について語るとき、政治学者であった丸山眞男の一説を引いている。
…丸山眞男の非常に印象に残っている一節があります。「学者というのは現実から物事を掬い取って変えていくので、そのときに自分の指の間から零れた無限の事実について、哀惜の念を持たなければならない」と。…「感性」と言われる感覚もそうです。落としていったピュアなものを措いて、それ以外のものでつくり上げていくので、どうしたっておかしくなってしまう。それを全部拾っているわけにはいかないからそれはよいのですが、丸山眞男の言う通りで、「こぼしたんだよ」という意識だけは持っていてほしいのです。…
養老孟司インタビュー「煮詰まった時代をひらく」『現代思想』2018年1月号
この「丸山眞男の非常に印象に残っている一節」は、学者としての仕事から書くこと・語ることに至るまで、養老孟司にとって物事を視る眼の一部であり、指針のひとつであり、また思想そのものの一部であったように、ぼくには見える。
また、丸山眞男はじぶんの立ち位置から「学者というのは…」と述べているけれど、それは決して学者だけに限られたことではない。
それは「人」に置き換えていってもおかしくない。
丸山眞男のこの一節にぼくは共感すると共に、その視線はぼくの言動に鋭くささっていく。
ぼくがこうして「書く」とき、あるいは「語る」ときに、ぼくの指の間からは「無限の事実」が零れ落ちていってしまう。
何かを「書く」ときに、ぼくはとてもたくさんのことを零していってしまっているように感じる。
でも、そこには「書く」ことの本質があったりする。
あることに焦点をあてて書くことで、見えるものがある。
焦点をはずされた<余白>に「見えないもの」が浮かびあがるように書くこともあるけれど、それでも零れ落ちていくものがある。
だから、養老孟司が念をおして言うように、「こぼしたんだよ」という意識だけはもちつづけていきたいと、ぼくは思う。