「この世界の中にただ生きることの、<幸福感受性>」(見田宗介)。-「ダニエルの問いの円環」という美しい文章と論理から。 / by Jun Nakajima

見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)という美しい本の三章は「ダニエルの問いの円環ー歴史の二つの曲がり角ー」と題され、「二人のダニエル」の物語を題材に、歴史の大きな曲がり角を見ている。見田宗介の文章は、ビートルズの曲たちのどれもが「すばらしい」曲であるように、いずれもが「すごい」文章なのだけれど、この第三章は、とりわけぼくの好きな章(のひとつ)である。

この、わずかに8ページほどの章のなかに、歴史と現代社会そして未来の社会を踏まえたうえで、ぼくたちの「生きかた」の問題のありかと、その生きかたを解き放つ方向性が、明晰な論理と美しい文章で書かれている。

一人の「ダニエル」は、宣教師/言語学者としてアマゾンの小さな部族ピダハンの人たちと生活をともにし、その記録を著書『ピダハン』(原著”Don’t Sleep, There Are Snakes: Life and Language in the Amazonian Jungle”)にまとめた、ダニエル・エヴェレット(Daniel L. Everett)である。


この本の「おどろき」と、それが照らすものについて、見田宗介はつぎのように触れている。


 この本が現代人をおどろかせるのは、長年の布教の試みの末に、宣教師自身の方がキリスト教から離脱してしまうということである。ピーダハーンの「精神生活はとても充実していて、幸福で満ち足りた生活を送っていることを見れば、彼らの価値観が非常にすぐれていることの一つの例証足りうるだろう。」「魚をとること。カヌーを漕ぐこと。子どもたちと笑い合うこと。兄弟を愛すること。」
 このような<現在>の一つひとつを楽しんで笑い興じているので、「天国」への期待も「神」による救済の約束も少しも必要としないのである。
 …
 けれどもこの時ダニエルの中で溶解したのは、キリスト教という一つの偉大な宗教の全体よりも、さらに巨大な何かの一角であったように思う。

見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)


見田宗介がこのような書物をとりあげることは、真木悠介の筆名で書かれた『気流の鳴る音』(1977年)のなかで、カルロス・カスタネダの作品を素材にして、ヤキ・インディアンの世界に出会ったことを想起させる。

ただし、その出会いの目的は、あくまでも、「われわれの生き方を構想し、解き放ってゆく機縁」として、明確にうちたてられていたように、ダニエル・エヴァレットを通してピーダハーンの世界と出会うことも、「われわれの生き方を構想し、解き放ってゆく機縁」のひとつとして位置づけられている。

『気流の鳴る音』のときと異なるのは、その時から40年ほどが経過した世界のなかにおいて、「巨大な何かの一角」が溶解したことであるということだ。


このように、溶解した「巨大な何かの一角」をさぐりながら、見田宗介がとりあげる、もう一人の「ダニエル」は、「ダニエル書」で知られる、預言者ダニエルである。このダニエル書において、<生きることの「意味」をひたすら「未来」の救済の内に求めるという発想>が、全思想の核心として明確に確立したのだ(歴史的な背景としては、ユダヤ民族の極限的に不条理な苦難の歴史がある)と、見田宗介は指摘し、ピーダハーンの充実した<現在>の生との対比のなかに、ピーダハーンが「教えてくれるもの」をとりだしている。

とりだされたピーダハーンの教えは、「この世界の中にただ生きていることの、<幸福感受性>」である。それは、「意味」をひたすら「未来」の救済のうちに求めるのではなく、今の、この世界の中にしあわせを感受する力である。

見田宗介はピーダハーンを理想化しているのではない。「近代化」はピーダハーンにもいずれやってくることを思い、また文明のテクノロジーの成果をふまえながらも、これからの時代にとりもどすべきわずかな基底のありかとして、<幸福感受性>をとりだしているのだ。

ここでは「歴史の曲がり角」の詳細には立ち入らないけれども、たしかにここに、「われわれの生き方を構想し、解き放ってゆく」核心がある。ぼくは、心身の底から、そう思う。