作家・沢木耕太郎の作品に、『深夜特急』(新潮社)という紀行小説がある。
日本をはなれ「世界を旅する」人たちの多くにとって、バイブル的な本として位置づけられていた本である。
26歳の沢木耕太郎がインドのデリーから乗合バスをのりついでロンドンをめざすユーラシア大陸の旅をもとに書かれている。
大学時代、ぼくのアジアへの旅にも、この『深夜特急』の旅は影響を少なからず与えていたものだ(また、旅先で、さまざまなかたちの「深夜特急」的な旅を生きる人たちに出会い、あるいはさまざまなかたちの「深夜特急」的な旅を否定する人たちに出会った)。
くわしくは小説に書かれているけれど、沢木耕太郎の旅は、いまぼくが住んでいる、ここ「香港」からはじまることになった。
後年、沢木耕太郎は、『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社)という著書のなかで、「香港」という、旅のはじまりについて、つぎのように振り返っている。
このユーラシアへの旅には、いくつもの思いがけない幸運が訪れてくれたが、その最初にして最大のものは、第一歩が香港だったということである。
それはやがて書くことになる紀行文にもあるとおり、本当に訳のわからないまま、九龍にある連れ込み宿風のホテルに長期滞在することから始まった。沢木耕太郎『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008年)
この「九龍にある連れ込み宿風のホテル」は、その後、バックパッカーの宿として有名になった「重慶大厦」(チョンキン・マンション)である(この建物のなかに幾多もの宿がひしめきあっている)。
「重慶大厦」は、改装され、その外観を新たにしたが、今も健在である。
1995年にはじめて香港を訪れたぼくが目指したのも「重慶大厦」で、そのときの香港・広州・ベトナムの旅のはじまりと終わりに、ぼくは「重慶大厦」のなかの宿を拠点として、香港の街を歩いたのであった。
沢木耕太郎は、当時の香港の旅について、つぎのように書いている。
香港は本当に毎日が祭りのように楽しかった。無数の人が狭いところに集まって押しくらまんじゅうをしているような熱気がこもっていた。その熱気に私もあおられ、昂揚した気分で日々を送ることができた。食堂や屋台の食べ物はおいしいし、なによりも安い。わずか何分か乗るだけのフェリーが素晴らしいクルージングのように思えた。しかも、筆談によって、あるていど互いの気持ちが通じ合える。自分で旅の仕方を発見し、楽しむことができれば、無限の可能性のあるところだった。
のちになって理解することになるのだが、香港から東南アジアを経てインドに入っていくというのは、異国というものに順応していくのに理想的なルートだったかもしれない。…沢木耕太郎『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008年)
沢木耕太郎の「旅」、それは1970年代の旅で、それから40年ちかく経過してもなお、ここ「香港」は、「無数の人が狭いところに集まって押しくらまんじゅうをしているような熱気」がこもっている(ながく香港に住んでみると、この「熱気」に耐えられなくなるときもあるけれど、やはりこの「熱気」が香港の動力なのだ)。
都市化の進展で、ショッピングモールが増えるなどして食事事情は変貌をとげてきたと思うのだけれど(そして値段は「安い」とは言えなくなってしまった)、それでも、ヴィクトリア湾をつなぐフェリーは「素晴らしいクルージング」だと楽しむことはいまもできるし、香港に10年以上住んでみても、「素晴らしいクルージング」だとぼくは感じることができる。
ところで、沢木耕太郎は、「香港をはじまり」とするルートを、<順化>という視点において理想的だったかもしれないとふりかえっている。
「旅」ということであれば(もちろん「旅」になにを求めるかにもよるけれど)、香港をそのように位置づけることもできるだろう(「住む」となったときは、人によっては「逆」かもしれない。香港の「便利さ」を胸に、たとえば東南アジアやインドに移り住むというルートがよいかどうかには、いろいろと留保があるだろう)。
とはいえ、これも人それぞれであり、場所への適応の仕方それ自体が、その人を特徴づけるものである。
ともあれ、沢木耕太郎の「深夜特急」の旅においては、この<順化>が、とても幸福な仕方で機能したということは、沢木耕太郎自身が明確に意識をしているところだ。
香港が、<順化>ということにおいて機能したことに加えて、沢木耕太郎は、ここ香港で獲得したものに大きな意義・意味を与えているようだ。
香港で旅の第一歩を踏み出したことは、「順化」だけでなく、その後の旅にとって決定的な意味を持ったと思われる。香港に滞在しているうちに私の旅のスタイルがほぼ決まることになったのだ。…
沢木耕太郎『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008年)
そうして挙げられているのが、たとえば、「記録」であり、「街歩き」である。
「記録」においては、日本から持っていった大学ノートの書き方を、左頁に「その日の行程と使った金の詳細」、右頁に「心覚え風の単語やメモや断章」を書くことを、香港に到着した一日目に決めたのだという。
また、「街歩き」では、「ガイドブックなし」という方法を香港で適応し、そののちもこの方法で街を歩くことで、新鮮な驚きを獲得しつづけたのだと、沢木耕太郎は書いている。
こんなふうに、沢木耕太郎は、ここ香港で、順化の最初の一歩、記録の方法、街歩きの方法という、旅における<大切なもの・こと>を手にしたのであった。
しかし、このように言葉として抽象的に取り出してしまうと、これらの獲得は必ずしも「香港」である必要はないものであるように見えてくるのだけれども、旅というものは、そんな抽象性を、旅を生きる具体性のなかに融解してゆくことがあり、26歳の沢木耕太郎にとっては、香港での滞在が決定的な意味をもつものであったのだろう。
それは、ぼくにとっての最初の旅が1994年の上海(上海から西安、そして北京・天津)であったこと、そしてその旅がいくぶんなりとも、ぼくの旅のスタイルを決定したものであることからも、実感として感じとることができるのである。