「もう遅い」けれど、「遅すぎ」ではない。「なにかをはじめる」思想。- 糸井重里氏のことばと視点。 / by Jun Nakajima

糸井重里氏は、2018年11月2日『ほぼ日刊イトイ新聞』の「今日のダーリン(糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの)」を、つぎのように書き始めています。


なにかをはじめるのに、「もう遅い」と思っちゃだめだなぁとつくづく思います。…

糸井重里「今日のダーリン(糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの)」『ほぼ日刊イトイ新聞』2018年11月2日号


先日も、糸井重里の「今日のダーリン」でとりあげられていたことを素材にして書きましたが、今日のことばも、ぼくのなかに鮮烈に投げこまれたことから、こうして、また糸井重里の視点を素材に書いています。

でも、鮮烈さは、上記のことばとは少し違ったところにありました。

なにかをはじめるのに「もう遅い」と思ってはだめだ、ということは、糸井重里の実感がこめられたことばであるのですが、さらにその先におかれたことばに、ぼくはとても惹かれるのです。


そのことばにふれるまえに、コンテクストを書き足しておきますが、糸井重里はこの文章を書くまえ、つまり「今日のダーリン」が届けられる日の昨夜に「笑福亭鶴瓶の落語会」を見にいってきたところです。

「ぼくが言うのもおこがましいのですが…」と前置きをしながら、糸井重里は、笑福亭鶴瓶の落語が、「ずいぶん上手になっている」ことをそこで感じたと言います。

そのことにあれこれと付け加えながら、糸井重里は、つぎのように語ります。


で、ね。「俺が落語家になったんは五十歳のときですよ」ですよ。そこからはじめるって、遅いでしょう?それはそうなんだけど、「遅すぎ」ではなかった。いや、「遅すぎ」にしなかったんですよね、本人が。「ほれ、こんなふうに、まだまだ上手くなるよ」と、見本を見せてくれてるような気がします。なにかをはじめると、よく「もう遅い」と言われます。そう言えば、ぼくも「ほぼ日」をはじめたのが五十歳。わりと具体的に「もう遅い」とも言われましたっけ。うん、歩みも遅かった、もう二十年も過ぎちゃったもん。

糸井重里「今日のダーリン(糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの)」『ほぼ日刊イトイ新聞』2018年11月2日号


「もう遅い」ということを、ぼくたちは思ってしまったり、あるいは人に言われたりしてしまいます。

「もう遅い」と思っちゃだめなのだけれど、どうしても、思ってしまうことがある。

世間や周りの人たちの「見方」が、じぶんに内面化してしまっているから、思ってしまうということもあります。

でも、そこからのひとことが、心に沁みてきます。


「それはそうなんだけど、「遅すぎ」ではなかった」


「もう遅い」から「遅すぎ」までの距離、それは確かに、はるかな距離(空間・時間)かもしれないと、ぼくは思うわけです。

世間的に(したがって、じぶん的にも)「もう遅い」という声が聞こえてくるようなのだけれど(そして、そう思ってはいけないこともわかっているんだけれど)、そこで<遅い>ということばの罠にかかって、あきらめてしまうのではなく、「遅すぎ」ではないんだと、じぶんをひらいてゆく。

それは、とてもひびいてくることばであり、知恵だと思うのです。


糸井重里は、しかし、笑福亭鶴瓶の落語においては、「いや「遅すぎ」にしなかったんだ」というように捉えています。

この捉え方は、遅い/遅くない、ということを超えてゆく「正しい」方法でもあるのだけれど、この認識は、糸井重里の感じていることの半分しか語っていないように、ぼくには見えます。

残りの半分については、じぶんも「もう遅い」と言われた経験があったことにふれながら、最後にこう書いたことに現れています。


「うん、歩みも遅かった、もう二十年も過ぎちゃったもん。」


つまり、ここでは、将来的に「成功」することで、過去の「遅い/遅くない」ということを書き換えるという方法が語られているのではなく(つまり、なにかの「達成」をもって「正しさ」を証明することが書かれているのではなく)、<歩み>自体の楽しさが書かれているわけです。


ぼくたちが「生きる」という道ゆきにおいて、なにかをはじめるときに、何をもって、「遅い」だとか、「遅くない」とかを判断し、評価するのだろう。

もちろん、そのような声をふりきって、未来においてなにかの「達成」を見せて、さしだして、「あのときは遅くなかったのだ」と証明し、言い聞かせることも(上で述べたように)方法のひとつではあるわけです。

けれども、そこで見せつける「達成」とはなんだろうか、と問い返すこともできます。

いずれにしても、人は、いつか「死」というものを迎えてゆくのであり、個人(個体)においては、達成は跡形もなくなってしまうのです。

ぼくたちにできるのは、人間として生きる、この世の一日一日を、遅かろうが速かろうが、その一歩一歩を歩むことでしかないと、ぼくは思うのです。

こういう視点で、「うん、歩みも遅かった、もう二十年も過ぎちゃったもん」という糸井重里のことばを見ると、「歩みは世間的には遅いと言われるだろうけれど、一歩一歩が楽しかったんだ。そのほかになにがあるというんだ」というように、ぼくには聴こえてきます。

それは、「遅すぎ」ではない、ということの、(より)徹底した生き方であるように、ぼくは感じるのです。


それにしても、なにかをはじめる人に向かって、「「もう遅い」ということはないよ」と伝えるよりも、「「遅すぎる」ことはないよ」と伝えるほうが、相手に伝わるということがあると思いませんか?

ぼくは、そう思います。

繰り返しになりますが、本人は、心のどこかで、「もう遅い」ということを感じてしまっていることがあるのだから。

と、思って、さっそく、「遅すぎることはないよ」と、伝えてみました。