CNNニュース(2018年11月4日)に、「The final finisher: The inspiring stories of last-place marathon runners」(「最後の完走者:最下位のマラソンランナーたちの感動的な/触発的な物語」)と題された記事がある。
マラソン大会といえば、人やメディアは「優勝者」や入賞者に光をあてる傾向があることとは逆に、この記事は「最後の完走者」、つまりビリの走者に光をあてている。
そこには、人をインスパイアするような「物語」があるのだと、ライターのJacqueline Howardは書いている。
記事のなかに、ニューヨークシティマラソンのダイレクターであるPeter Ciacciaの言葉がおかれているように、「for every runner, there’s a story.」(「すべてのランナーに、物語があるんだ」)と言うほうが、視点がより包括的で、より徹底しているけれども、記事には「フォーカス」が必要であるし、「最下位ランナーの物語」は人の関心をひくものであるだろうから、このようなタイトルと内容の展開は「理解できるもの」である。
そのことを確認したうえで、「最下位のマラソンランナーたちの物語」にひかれることを、ぼくはここに書いておきたい。
「最下位のマラソンランナーたち(last-place marathon runners)」と複数形で書かれているように、ここでは4名のランナーが取り上げられている(もちろん、ふつうは意識しないけれど、どんなマラソン大会にも「最下位」のランナーがいるものである)。
「まひした身体」でロンドンマラソン(2018)を「最下位」で完走したサイモンさんは、じぶんの子供たちにとって「スーパーヒーロー」となり、また、まひした身体にかかわらず自身の足でこのレースを完走した最初の男性(the first paralyzed man)という記録付きであった。
ニューヨークシティマラソン(2017)を「最下位」で完走したデーヴィッドさんは、このレースの完走は10回目であったけれど、つま先を使って車椅子をおしながら完走であった。
アトランタでのハーフマラソン「The Race」を「最下位」で完走したアミナさんは、ぜんそく持ちでありながらできるとは思っていなかった完走を果たした。
世界中のマラソンやウルトラマラソンを110も走ったリサさんは、それぞれの完走を祝うため、新しく獲得したメダルをかけたまま寝ることを慣習があるのだというけれども、参加したレースのうち25回が「最下位」であったという(彼女は、レースを走りはじめたとき、「ビリ」になることを恐れていたという)。
この記事を書いたライターのJacqueline Howardは、これら4人が「共通してもつもの」を取り出している。
彼ら・彼女たちが「あきらめなかったこと」だ。
あきらめずにゴールを目指し、ビリであっても、走り(あるいは歩き)、ゴールをつきぬける。
より本質的には、じぶんの抱いていた「困難」をあきらめずに(あるいは徹底的にあきらめることによって)、のりこえてゆく精神の運動がみられることであるように、ぼくは思う。
そして、「共通してもつもの」として、より根底的には、それぞれの人たちにとっての<物語>がたちあがり、その物語に生きたことだと、ぼくは思う。
これら4人の「最下位のマラソンランナーたち」の「物語」、それは記事ではとても短い物語だけれど、物語の一端が見えてくるようにさえ感じられる物語である。
でも、それらの物語は、「メディア記事としての物語」ではなく、彼ら・彼女たち自身の<物語>として、鮮烈に生きられてきた物語である。
ぼくはそう思う。
そして、くりかえしになるけれど、「最下位のランナーたち」にかぎらず、だれにとっても、物語はあるのだということ。
途中であきらめてしまい、完走できなかったものたちにも、物語はある。
マラソンのレースは、そのような、個々の物語が、一緒に走るという舞台において交差し交響し共振する場でもある。
個々の物語が、とくに語られるということがなくても。