香港の繁華街、Causeway Bay(銅鑼灣)にあるTimes Square(時代廣場)の2018年クリスマス企画のひとつ、「Exquisite Christmas at Times Square(時代廣場 微妙聖誕)」。
この企画では、香港のミニチュア・アーティスト(Tony Lai氏とMaggie Chan氏)が、1980年代におけるクリスマスシーズンの香港の風景を、ミニチュアで再現し創り上げている。1980年代のクリスマスの時期に、アミューズメント・パークで楽しむ人たち、映画を楽しむ人たち、食事を楽しむ人たちなど、6つの風景がミニチュアで創られているのだ。そのなかのひとつは、アーティストが33名の生徒さんたちと一緒に創った労作でもあるという。
とても精巧に創られていて、1980年代の香港を知らないのにもかかわらず、その当時の風景がイメージとして浮かび上がってくるかのようだ。その精巧さは、展示場の年配の警備員の方が、当時はこのようだったんだ、というようなことを、展示を見に来ている人に熱心に説明したくなるほどである(実際に警備員の方は熱心に説明されていたようである)。
Times Squareの入り口に設置された特別展示会場での展示であり、小さな場所の、小さな展示(展示物自体が「ミニチュア」)なのですが、<クリスマス+香港の風景>の組み合わせによって、「香港のもの」(作者も、対象も)を見ることができて、ぼくはうれしく思ったのであった(なお、「香港の風景」と言えば、Times Squareの中にある「LEGO」の店舗にはレゴのブロックで創られた香港の風景があって、とても精巧精密にできていて圧巻である)。
<クリスマス+香港の風景>をミニチュア作品のなかに見ていたのだけれど、気にかかったのは「1980年代」の風景であったということ。
ミニチュアを直接に見ているときは、その精巧な世界にひきこまれていて不思議には思わなかったのだけれど、あとになって、ふと思うのであった。なぜ「1980年代」なのだろう、と。30年以上もまえの「香港の風景」が、どうして呼びだされたのだろうか、湧き上がってきたのだろうか、ということを、ぼくは考えてしまったわけである。
この企画の広告にも記載されているように、あるいはアーティストのTony Lai氏とMaggie Chan氏にかんする記事にあるように、それは香港のよき時代の記憶/失われた記憶へとつれもどしてくれるメディア、あるいは「乗り物」としてのミニチュア作品であるのかもしれないけれど、はたして、そのような記憶に登録されている「香港」というものはどのような「香港」であったのだろうか。めざましい経済発展を成し遂げてきた1980年代以後の香港が手に入れたものは何で、失ったものは何であったのか。
ぼくにはそのことはわからない。想像はできるけれど、ぼくの直接の経験がベースになっているわけではない。
ぼくが生きてきた「日本」の経験に即しながら、しいて言えば、「平成」の時代から振りかえる「昭和」の風景かもしれないと、ぼくは思ってみたりする。イメージとしては、いわゆる、「レトロ」なイメージである。
昭和の時代のレトロな風景に向かう心情(レトロな風景と、そのような風景に息づく人間模様や風情や心境など)が、1980年代の香港の風景に向かう心情と、どこか重なっているかもしれないと思ったりするのだ。実際に、ミニチュア作品のなかに見られる、街頭の「屋台」などが、そのような見方を少しは裏づけているかもしれない。
でも、記憶というものは、過去の記憶を「純化」してゆく作用ももっている。記憶は、当時の風景からいろいろなものを捨象していって、美しい風景へといくぶんか「純化」してゆくのだ。それは「間違った記憶」ということもできるかもしれないけれど(そして記憶は多分にして「再構成された/再解釈された記憶」であるのだけれど)、ぼくは、そのなかには「真実」も含まれるのだと思う。
そのようにして記憶として純化されながらも、確かにそこにあった「真実」とは何であったのだろうか。その「真実」は、いまとなっては失われてしまった(あるいは失われてしまったかのようにみえる)のだろうか。また、それと同時に、何かを手にしてきたのであれば、それは何であったのだろうか。
さらに、それらは、深いところで、「ぼく」の経験や感覚とつながっているだろうか。つながっているとしたら、どのようにつながっているのだろうか。
ミニチュアではなく、窓の外に見える香港の高層ビルの明かりを見ながら、ぼくはそのような問いを明かりに向けて投げかける。