「音楽ストリーミング」の時代のなかで。- 香港でその「移行期」を通過しながら。 / by Jun Nakajima

先日(2018年12月18日)に、ここ香港のHMVの店舗が清算手続きに入ったとのニュースが入り、実際にHMVの店舗が閉じられているのを目にして、後もどりすることのない時代の流れを感じる。CDやDVDなどに代わり、Apple MusicやSpotifyなどの「音楽ストリーミング」サービスが主流となる。

香港のHMVは25年ほど前に香港に登場し、音楽シーンの中心的役割の一端を担ってきた。ぼくが香港に来た2007年、HMVには多くの人たちが出入りしていた。

当時は、映画などはDVDだけでなく、VCDもあって、HMV内にもVCDコーナーが設置されていた。音楽CDの品揃えは香港内ではやはり群を抜いていたから、ぼくは時間を見つけては、銅鑼灣(Causeway Bay)、中環(Central)、九龍湾(Kowloon Bay)のHMVに立ち寄ったものだ。

驚いたのは、日本で購入するよりもリーズナブルな価格でCDもDVDも購入できたこと。そんなこともあって、結構いろいろなCDとDVDを香港のHMVで手に入れた。当時よく聴くようになっていたクラシック音楽をはじめ、香港の生活のなかで縁の深かったビーチボーイズ(特に、名盤「ペット・サウンズ」)など、ぼくの香港生活においてなくてはならない「音楽」は、その多くをぼくは香港HMVで手に入れたのであった。

香港で、CDとコンサートがひとつの「セット」のような仕方で、ぼくは音楽を楽しんできたと、10年以上の香港生活をふりかえってみて思う。

ノルウェイのピアニストであるLeif Ove Andsnesが弾く「ピアノ・ソナタ第十七番ニ長調」D850を、その息づかいが身体にしみこむまでCDで聴いていたところ、彼がマーラー室内管弦楽団とともに香港にやってきた。ピアノを弾きながら指揮をするという興味深い形式のなか、とても親密で繊細な音楽を、この身体で聴くことができた。

ビーチボーイズも50周年記念のコンサートツアーで香港にやってきた。ブライアン・ウィルソンの存在感とともに、休憩を挟んで3時間におよぶパワフルなステージを堪能できた。

Coldplayも、ぼくは香港に住みながら初めてその音楽に触れ、そして、香港のコンサート会場で、一体感につつまれるあの音楽を楽しむことができた。


でも、このような時間的経過のなかで、音楽が提供される「形式」は、深い変遷のなかにあったのだ。iPodのなかに収められる音楽の曲たちは、いつからかiPhoneなどのスマートフォンのなかに移住してゆく。CDからiTunesを通してiPodに収められた音楽の曲たちは、いまでは、Apple Musicのような「音楽ストリーミング」サービスによって、いつでも、どこでも、ぼくたちの手元と耳に届くようになった。

さらにぼくが生きてきた40年余りの時系列のなかに音楽媒体を見渡すと、レコードとカセット、CD(またMD)、それからデジタルへと、音楽媒体は目まぐるしい変遷をとげてきたことを思う。これらの変遷が、たった40年近くのあいだに、一気に進んだのだ。そんな特別な時代に、ぼくは生きている。

カセットテープは10代の頃、重宝した。その当時のだれもがしていたように、じぶんなりの曲構成で、オリジナルのカセットテープを作成したりしていた。1996年にニュージーランドにいるときは、なぜかカセットテープがよく売られていて、CDに比べ安価だったから、ぼくはカセットテープと共に生活していた。

レコードはレコードがコレクターアイテムとして扱われるようになってからも、ぼくはときどき聴いていた。東京の街で、ビートルズのレコード盤を手に入れ、そこに、1960年代の音を聴いた。

それからCDも、東京の街をいろいろと歩きまわりながら手に入れた。香港に移ってからも、香港HMVで、それは続いたのであった。


この10年をふりかえって、CDやDVD離れの傾向のなか、香港HMVもずいぶんと、いろいろな手立てを立てて、存続を企図してきていた。ヘッドフォンなどの機器類、レコードのレア品、本や雑誌、グッズ、レストラン併設など、幅を広げてきていた。でも、確実に、出入りする人は減っていた。

その減少と入れ替わるようにして出現してきた「音楽ストリーミング」、またNetflixのような「映像ストリーミング」。これらの時代の到来は明らかであったし、だれもが実感していることではある。でも、実際に、店舗が閉じられるということになってみて、この時代の変遷がいっそう、実感をともなって感じられる。


必然の流れでありながら、やはり寂しくも感じる。でもよい面だって、ある。ストリーミングという形式は、CDやDVDのような「マテリアル・物質」に依存することなく、現代社会の抱える環境・資源問題から、より自由な仕方で(環境への負担を軽減し、資源収奪的な要素が減った形で)、音楽や映像を共有することができるということでもある。

そして、あたりまえのことだけれど、「音楽」を聴くことができないわけではないし、「音楽」が聴かれなくなったというわけではない。「音楽」はなくならない。東京の街や香港の街を歩きながら、聴きたかった音楽、あるいは予期もしない音楽に出会うという楽しみはなくなったけれど、音楽との「出会い」そのものがなくなるわけではない。

「音楽ストリーミング」という何千万曲もの音楽を収めた音楽ライブラリーの宇宙が、手元に存在している。その宇宙の入り口が、手元にあるのだ。音楽を聴く者としては、それは夢のような世界だ。

もちろん、音楽産業(音楽を作ったり販売したり配信したりする側)としては、異なる見方がいろいろあるだろう。

この文章を書きながら、だいぶ前(数年前)に手に入れた著作『How Music Got Free: The End of An Industry, The Turn of The Century, And The Patient Zero of Piracy』by Stephen Witt(Viking, 2015)のこと、その本をまだほとんど読んでいないことを思い出した。(ぼくにとって)この本を読むタイミングが熟したのかもしれない。