2018年も12月に入って、ここ香港もそろそろ冷えこんでくると思いきや、ここ数日は日中25度くらいまで気温が上がり、汗ばむような気候だ。来週はだいぶ気温が下がるようで、「香港の冬」の雰囲気がよりいっそう感じられるかもしれない。
ところで、年の瀬が近くなって、「2018年の本」というような切り口で、読んでおきたい本などが取り上げられるようになってきた。
だから、ぼくも「2018年の本」といった切り口でブログを書こうと思っていたら、密接に関連する二つの問題にぶつかることになってしまった。
一つ目の問題は、「2018年」のように年の取り扱い方であり、もう一つの問題は、「2018年に……本」の「…」に入れる言葉である。
「2018年」としぼったとき、2018年に「出版された」本を対象とするのか、2018年という時勢に「読んでおきたい」本であれば古典を持ち出してもよいのか、という問題である。
それと同時にぶつかった問題は、「おすすめの本」のようなものとして、たとえば「2018年に読んでおきたい本」とテーマをしぼるとすると、それほど時間的に「喫緊な本」というものがあるだろうか、と考えてしまったことである。
「2018年」とはどのような年であったのか、ということをつきつめて把握しなければ、「2018年」において「喫緊な本」は明確に見えないのかもしれないと思いつつも、他方で、2018年にぼくが読んできた本の多くは、これまで以上に「古典的な本」であったことを、ぼくは思い起こすのである。
ぼくの個人史的な流れのなかでそのような本が「必要」とされたときだったことと共に、やはり「今」は、過去から未来への時間軸をよりながく描くことで、現在と未来が見えてくるのだと考えているのでもあり、「古典」や時間軸をながくとった書物が、生きてゆくうえで大きな力となってくれるのだ。
そんな時代だからこそ、現在、本の置かれている状況も、世界の現在と未来を反映するように、今読むべき「喫緊な本」と、世界の大きな転換期だからこその「古典的な本」や「時間的な視界の広い本」とに、大きく分かれているようにも見える(もちろん、本によっては、あるいは読み手によっては、これら二つの流れがひとつになるように交差してくる本もあるだろうが、ひとまずここでは分けて考えておく)。
そんなことをかんがえながら、ひとまず「2018年に出版された本で、ぼくのおすすめの本」としようと思う。「2018年」を残しながら、この年に出版された本とし、そして「2018年に出版された本で、ぼくのおすすめの本」に、ここでは「一冊」という限定を加えることにする。
「2018年に出版された本で、ぼくのおすすめの一冊」は、見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)。
「現代社会」(そして未来の社会)を捉えるこの書物は、2018年に出版された本でありながら、これからもながいあいだ読み継がれてゆく書物であるだろう。「現代社会」を三千年の流れのなかにおさめ、これからの少なくとも100年かかるだろう変革を視界におさめているからだ。
ブログ「見田宗介著『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』。- <肯定性>に充ちた「100年の革命」を描く。」(2018年7月11日)で、そのあたりの一端をつぎのように書いた。
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見田宗介の新著『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)は、肯定性に充ちた書である。
ぼくたちの生きる「現代社会」の立ち位置を、人間の歴史のなかで明晰に太い線でマッピングし、また「どこに向かうか」ということを、すでにこの世界で見て取れる現実にも光をあてながら、しかし「歴史の曲がり角」としての視野を提示する。
ここではそれぞれの「内容」には入っていかないけれども(ブログで随時、ふれてゆくことになると思う)、このすてきな本のぜんたいを感覚しながら、まずはじめの所感のようなものとして、ここに書いておきたいと思う。
見田宗介による「岩波新書」としては、これで三冊目となり、ほぼ10年に一冊で出されてきたこれら三冊は、この三冊目をもってして、いわば「三部作」のようなものとして完結したようにも見ることができる。
三冊目を含め、これまでの「新書」は、つぎのとおりである。
●『現代社会の理論ー情報化・消費化社会の現在と未来』岩波新書、1996年
●『社会学入門ー人間と社会の未来』2006年
●『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』2018年
『現代社会の理論』で「現代社会」の光の巨大と闇の巨大をひとつの理論としておさめ、『社会学入門』ではさらに広い歴史的な視野のなかに「現代社会」とその未来を位置付け、それから『現代社会はどこに向かうか』で「軸の時代」(カール・ヤスパース)の概念を援用しながら、未来にひろがる<永続する幸福な安定平衡の高原>としての社会を見据える。
見田宗介は、かつてカール・ヤスパースが書いた、上述の「軸の時代」という概念を念頭に、人間の社会における「歴史の二つの曲がり角」を太い線として描き出す。
ここは、見田宗介自身の言葉で、「歴史の二つの曲がり角」の「課題」をおさえておきたい。
第一の曲がり角において人間は、生きる世界の無限という真実の前に戦慄し、この世界の無限性を生きる思想を追求し、600年をかけてこの思想を確立して来た。現代の人間が直面するのは、環境的にも資源的にも、人間の生きる世界の有限性という真実であり、この世界の有限性を生きる思想を確立するという課題である。
この第二の曲がり角に立つ現代社会は、どのような方向に向かうのだろうか。そして人間の精神は、どのような方向に向かうのだろうか。わたしたちはこの曲がり角と、そのあとの時代の見晴らしを、どのように積極的に開くことができるだろうか。本書はこの問いに対する、正面からの応答の骨格である。見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年
この「第一の曲がり角」とは、紀元前古代ギリシャで哲学が生まれ、仏教やキリスト教の基となる古代ユダヤ教が展開された時代の「曲がり角」である。
見田宗介が書いているように、いろいろな思想が一気に開かれた背景には、「貨幣経済」と「都市の勃興」ということがある。
そのような社会で、それまで「共同体」という有限な世界に生きていた人たちが、歴史のなかではじめて、<無限>の世界を目の当たりにすることになる。
そのときから今日におけるまでの二千数百年、これら「貨幣経済」と「都市の原理」が徹底的に浸透し、<近代>という時代がつくりだされてきた、という認識に見田宗介は立っている。
そして、現代社会は、グローバリゼーションの果てに、世界・地球の<有限>という、「第二の曲がり角」に立っているというわけだ。
この「第二の曲がり角」において、社会の向かう方向性、それからこのあとにくる時代の見晴らしをどのように開くのかという問いに対する応答が、この本である。
「あとがき」で、この本は「一つの新しい時代を告げるアンソロジー」と見田宗介は書いているけれど、「目次」を読んでいるだけで楽しくなってくる「アンソロジー」だ。
【目次】
序章 現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと
一章 脱高度成長期の精神変容ー近代の「矛盾」の解凍
二章 ヨーロッパとアメリカの青年の変化
三章 ダニエルの問いの円環ー歴史の二つの曲がり角
四章 生きるリアリティの解体と再生
五章 ロジスティック曲線について
六章 高原の見晴らしを切り開くこと
補章 世界を変える二つの方法
なお、序章から四章はこれまで発表されてきた論考に手がくわえられたもので、五章から補章がこの新書のための書き下ろしである。
社会学者「見田宗介」の著作群ぜんたいを、世間に受け容れられなくてもよいとして書かれてきた「真木悠介」名での著作群ともあわせて見渡すなかでは、この本は、見田宗介=真木悠介の著作群のなかでもユニークなもののように見える。
それは、これまで書かれてきたことが、この本において、いろいろな音が交響するように混じり合っていることである。
たとえば、近代社会・現代社会の矛盾や相克をあつかう社会学的な分析と論考において、人の幸福や欲望の相乗性などの論考が正面からとりいれられ、融合され、論じられている。
もちろん、これまでの著作群も、このような社会の「ハードな側面」と人の「ソフトな側面」がともに視野に入れられながら、書かれてきてはいたのだけれど、この本においては、<高原の見晴らしを切り開く>ということのなかで、ともに正面から論じられ、美しい仕方で交響し、人と社会の肯定性が鳴り響いている。
このことを支えているのは、いつにも増して加えられている「補」や「補章」(一章・二章・六章に「補」の文章が書き添えられ、また「補章」が加えられている)である。
そのうちの「補章」、「世界を変える二つの方法」は、補章でありながら、ぼくたちの思考、そして心をうつ。
その最後の節は「連鎖反応という力。一華開いて世界起こる」と題され、新しい時代の見晴らしを切り開くための<解放の連鎖反応>の「一つの純粋に論理的な思考実験」について、書かれている。
一人の人間が、1年間をかけて一人だけ、ほんとうに深く共感する友人を得ることができたとしよう。次の一年をかけて、また一人だけ、生き方において深く共感し、共歓する友人を得たとする。このようにして10年をかけて、10だけの、小さいすてきな集団か関係のネットワークがつくられる。新しい時代の「胚芽」のようなものである。次の10年にはこの10人の一人一人が、同じようにして、10人ずつの友人を得る。20年をかけてやっと100人の、解放された生き方のネットワークがつくられる。ずいぶんゆっくりとした、しかし着実な変革である。同じような<触発的解放の連鎖>がつづくとすれば、30年で1000人、40年で一万人、50年で10万人、…100年で100億人となり、世界の人類の総数を超えることになる。
…肝要なことは速さではなく、一人が一人をという、変革の深さであり、あともどりすることのない、変革の真実性である。自由と魅力性による解放だけが、あともどりすることのない変革であるからである。見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年
これまで、「世界を変える」という言葉が、どれだけ多くの人たちを魅了し、触発し、行動に向かわせ、そして一定の範囲での成功をおさめさせ、あるいは失敗させてきたことだろうか。
それはひとつの「衝動」でもある。
かつて、「言葉で世界は変わらない、暴力で世界は変わらない」と書いた見田宗介は、そのような「時代」を生き、その歴史を丹念に冷静に見つめ、方法を真摯に求めるなかで、この「変革の真実性」に至る。
書かれているように、これはあくまでも「思考実験」であり、現実はさまざまな阻害要因と加速要因が作用してくる。
また、「第一の曲がり角」では600年の時間を要して、かずかずの思想が確立されてきたのに対し、もし100年かかるとしても早いものだと、見田宗介は書いている。
でも、繰り返しになるけれども、肝要なことは、その「速さ」ではなく、変革の深さであり、自由と魅力性による解放であり、したがって「あともどりすることのない」真実性である。
ぼくが書くブログも、そのような変革の真実性に向けて、投げ放たれてある。
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こんな一冊である。
まぎれもなく「2018年に出版された本で、ぼくのおすすめの一冊」でありながら、2018年を起点として、これからも読み継がれる書物である。2018年に「世界に放たれた」書物であり、世界のあちらこちらに、未来を準備する世代たちのうちに<思考の芽を点火する>一冊である。
ちなみに、この本の「あとがき」にあるように、この本は今は亡き鶴見俊輔氏に捧げられている。この本のなかで鶴見俊輔やその思想に触れられたわけではないが、見田宗介は「鶴見さんの、素朴なポジティヴなラディカリズムは、一番大切なことをわたしに教えてくれた」と書きながら、本書を鶴見俊輔に捧げている。
その箇所を読みながら、加藤典洋が『戦後入門』(ちくま新書、2015年)を、鶴見俊輔氏に読んでいただきたかったのだ、と書いていたことを、ぼくは思い出す。加藤典洋はだから執筆を急ぎながらも、最後の最後で鶴見俊輔の逝去に遭ったのであった。加藤典洋にとって鶴見俊輔は「私という書き手をつくってくれた人」だという。
これまでに数冊しか読んできていない、鶴見俊輔の著作。
こうして、ぼくの「2019年の読書」のひとつの方向性・目標・楽しみがみつかる。