人間の知の究極の主題について。- 人の探求の「最終的な目標」。 / by Jun Nakajima

大澤真幸にとっての、ライフワーク的な仕事である著書『動物的/人間的:1. 社会の起原』(弘文堂、2012年)。大澤真幸にとっての師である見田宗介(真木悠介)の論文『自我の起原』(のちに同タイトルで書籍化。岩波書店、1993年)のスリリングな論考に触発された著書である。

この著書の最初には「知の究極の主題」と題された節がおかれていて、つぎのように文章がはじまっている。


 人は知ろうとして、探求する。しかし何を知りたいのか?何が探求の目標なのか?
 人が知ろうとしているもの、人の探求の最終的な目標、あらゆる学問の蓄積が最終的にそこへと向かって収斂していく場所、それは何か? 自分自身である。

大澤真幸『動物的/人間的:1. 社会の起原』(弘文堂、2012年)


人の探求の「最終的な目標」は、<自分自身>であること。この文章は、読む人によっては、唐突に聴こえるかもしれない。知の形態も、知の内実も、さまざまであるからである。とりわけ、知の対象が、「自分自身」に直截に向かうのではなく、外部のものに向かうようなときには、違和感がのこる。

だから、大澤真幸はつぎのように説明を加えている。


 とするならば、人間のすべての知を規定している究極の問いとは、<人間とは何か?>にほかなるまい。一見したところでは、この問いには関係していないような知的探求の領域もある。素粒子の構造についての研究とか、金融政策の効果についての研究とか、特殊な素材の電気の伝導率についての実験等々と、われわれは、何でもかんでも、すべてを知ろうとしているように思われる。だが、こうした多様でばらばらな主題や諸分野も、畢竟、<われわれは何者なのか?><人間とは何か?>という謎へと迫るための多様な迂回路なのだ。

大澤真幸『動物的/人間的:1. 社会の起原』(弘文堂、2012年)


多様でばらばらな主題や諸分野も、たとえそれが素粒子であっても、金融政策であっても、電気であっても、それらは、<人間とは何か?>という究極の問いにつながっている。大澤真幸は、そう定めている。

そうはいっても、まだ首をかしげる人もいるかもしれない。「〇〇は何か?」という「what」の問いもあれば、「どのように…するか?」という「how」の問いもある。問いの向けられる先が、「当面の解決方法」であったり、「表面上の知識」であったり、また「損得にかかわるもの」であったりするかもしれない。。試験に受かるためだとか、お金がもうかる方法だとか。

ただ、「知」をどのように利用するのか、ということを取り除いて考えてゆくと、たしかに、究極の問いは<人間とは何か?>というところに収斂していく。

そして、探求がやがて収斂してゆくところが「自分自身」であるということ(<人間とは何か?>という問いであること)を見定めておくことは、知の探求における「軸」とすることもできると、ぼくは思う。どんな多様な迂回路を通過していようとも、「軸」を定めておくことで得るものがあるということである。


20代を通して、研究においても実践においても「Development Studies(途上国の開発・発展、また国際協力)」という分野につかっていたぼくは、その諸相と方法を学ぶなかで、やがて探求の次元を「開発・発展とは何か?」というところに押し上げざるを得なくなった。そしてそれは、今思えば当然のことながら、「人間とは何か?」という問い(あるいは、この問いにつらなる、人間の生きる目的や人間のしあわせとは、などという問い)を発せざるを得なくなるところに、ぼくの思考を押し出していったのであった。

ぼくはその延長線上に、香港で人事労務という領域、つまり「人」を中心主題とする仕事へとつなげていき、そこから、今こうして、「生きかた」というところへと幅をひろげている。その根柢には、ずっと「自分自身」に向けられた問いがあり、<人間とは何か?>という問いが、「知の究極の主題」として横たわっている。

はじめから明確に意識していたわけではないけれど、表面的な意識よりももっと深いところでは、この「知の究極の主題」をぼくはいつも追ってきたのだと、今の時点からふりかえりながら、ぼくはそう思うのである。