2002年から海外に住むようになって16年が経過し、それ以前のニュージーランドでの滞在(1996年)も含めると、通算で17年ほど海外に住んでいることになる。これまでの人生の40%ほどの「時間」が、日本の外であったことになる。
海外にいながら、日本と「海外」の<あいだ>のようなところで、いろいろと経験し、いろいろと考え、いろいろと感じてきた。
そんななかで「納豆」を媒体としながら、考えることもあったりする。「納豆」とは、あの、食べ物の「納豆」である。
ここ香港で暮らしながら、ぼくは結構な頻度で「納豆」を食べている。その頻度は、今では日本に住んでいたときと変わらないくらいである。
香港に住みはじめてから11年半ほど経過したが、そのあいだに、納豆はますます容易に手にいれることができるようになってきた。
香港に来た最初の頃は、たとえば、Causeway Bay(銅鑼灣)にあるSOGOの地下、あるいは日本人が多く住むTaikoo Shing(太古城)にあるAPITAに行って、納豆を含め日本食材を購入していた。それが、最近では、香港系のスーパーマーケットでも、まるでこれまでずっとそこにあったかのように、納豆が並んでいる。
納豆を購入する人が日本人だけにかぎらず、マーケットが拡大してきたのだろう。このようなマーケットの拡大のお陰もあって、納豆が容易に手に入るようになり、ぼくはいつでも好きなときに納豆を食べることができるのだ。
ニュージーランドにいたときはどうだっただろうかと、ぼくは思い返す。ニュージーランドのオークランドで、ぼくは日本食レストランで働いていて、果たしてレストランで納豆を供していたかどうか。さすがに、1996年のことで、ぼくの記憶は定かではない。でも、普段食べることはなかったことを、ぼくは覚えている。日本食食材のお店も、当時は小さなお店があっただけである。
2002年から2003年にかけて西アフリカのシエラレオネにいたときは、さすがに納豆はなかった。シエラレオネにいる日本人は一桁であったし、日本食材というものは、海外で造られたキッコーマンの醤油のようなものを除いてはなかったと思う。アフリカと日本との「距離」をさすがに感じたことを覚えている。
でも、2003年の半ばに東ティモールに移ったときは、驚かずにはいられなかった。当時、まだ日本の自衛隊が東ティモールに展開していたことの影響もあっただろうけれど、日本食レストランがあり、また、日本食食材(製造場所は海外も含む)も、品数は相当に限られながらも、手に入れることができたからだ。そして、その限られた日本食食材のなかに「納豆」があったのだ。
華人の人たちによって経営されているスーパーマーケットに「納豆」があったのだけれど、でも、さすがに購入はしなかった。その納豆は「冷凍」されていて、いつからそこにあるかわからないようなものであったからだ(多分、賞味期限も切れていたのだと思う)。しかし、なにはともあれ、東ティモールで納豆を手に入れることができる。そのことはやはり驚きであり、また日本との「近さ」のようなものを、ぼくは感じたのであった。
そして2007年にここ香港に移り、日本食食材の充実さにぼくは圧倒され、それ以降、ますます充実してゆく日本食食材を享受してきたことになる。
海外に住みながら、<ふるさと>の感覚を感じるときはどんなときだろうと、ぼくは考えたことがあった。ぼくが住んできた場所で、日本からもっとも遠いシエラレオネの地で、より正面からぼくは考えはじめたのだと思う。
そのときに思ったのは、<ことば>(ぼくの場合は「日本語」)であり、また<食べ物>(ぼくの場合は「日本食」)であり、そして、<親しい人たちの存在>ということであった。
もちろん、地球を「ふるさと」とする感覚においては、どの場所をも<ふるさと>とする感覚をもつことは不可能ではない。でも、そのこととは異なる次元において、どんなときに、どんなものに<ふるさと>を感じるのだろうかと、ぼくはこのじぶんの身体の経験を通じて、正面から考え、ことばと食べ物と親しい人たちを<ふるさと>として感じたのであった。
でも、時代は急速に変わってきた。グローバル化の進展と情報通信技術の発展で、ぼくたちは、世界のどこにいても、たとえば日本語で会話し、親しい人たちとつながることができる。場所によっては、日本食も(お金はかかるかもしれないけど)容易に手に入れることができる。だからなのか、日本からだいぶ足が遠のいてしまっている。
香港で納豆をかき混ぜながら、ぼくはそんなことを考える。「納豆」に、<ふるさと>をどこか感じながら。