「食べ過ぎの心理」と聞くと、ついつい、知りたくなってしまう。ぼくはとくに「食べ過ぎ」をすることはないのだけれども、それでも、やはり知りたくなる。とりわけ、あの野口晴哉先生が語る「食べ過ぎの心理」となれば、なおさらのことだ。
整体指導や体癖研究などを通じて体を知りつくしていた野口晴哉(1911-1976)が、専門外である「教育」について、整体協会における講座で語ってきたことの記録が、野口晴哉『潜在意識教育』(全生社、1966年)としてまとめられている。
この本のなかの「性格形成の時期」という章の一節(第四節)に、「食べ過ぎの心理ー乳児期の欠乏と潜在意識の方向」という文章がおかれている。
そのぜんたいと詳細は、この本を読んでほしいが、ここではいくつかのポイントにしぼって、書いておきたい。
他の著作を含め、野口晴哉は「体への信頼」ということを大切なこととして提示しているが、その視点がここでも貫かれ、<体は食べすぎることはできない>と述べている。
眼が覚めたら起床し、腹が空いたら食べ、眠くなったら眠るというように、体の要求によって体を使ってゆくことを考えねばならない。体を信頼しないということを前提にした行動は、よいはずのことでも、力が発揮されないために逆になるということも少なくない。第一に体は食べ過ぎるなどということはできない。…
野口晴哉『潜在意識教育』全生社、1966年
もちろん、ここで語られる条件、「体の要求にしたがって」ということが肝要である。現代は、野口晴哉がこのことを語っていた時代にもまして、この条件を満たしてゆくことがむずかしいときだ。どうしても「頭」ばっかりが大きくなってしまい、上記の文章の直前に野口が書いているように、体のことに気を使い「食べ過ぎはしないか、働き過ぎはしないか、眠りが足らないのではないか」と意識でばかり考え過ぎなのである。そんなこんなだと、体が本来の力を発揮できないのだと、野口は書いている。
ともあれ、この条件を認識したうえで、それでも実際には食べ過ぎでお腹を壊す人たちなどを見ながら、野口晴哉は「人間の体の要求を超えてまだ要求があるのだろうか」と問いを立てながら、「食べ過ぎの心理」へと分け入っていくことになる。
そこで持ち出されるのが、この章「性格形成の時期」の論理展開の骨格をなしている「生後十三ヵ月間の問題」である。この時期が大切であること理由のひとつは、赤ちゃんが自分の意志を言葉によって表すことのできないこの時期に「潜在意識に与えた歪みは、大人になっても、意識以前の心の方向として働き続けるから」である。
生後13ヵ月以内の乳児の栄養とその与え方(質や量まで)、いくつかの状況事例などを概観しながら、この時期に、赤ちゃんの「体の要求によって食べるという自然の性質」のままに育ててゆくことで、大きくなっても食べ過ぎるということがないようになるのだと、野口晴哉は語っている。だから、たとえば、親が時間を定めて無理に食べさせるような仕方は弊害を生んでいく。
そのような事例が挙げられながら、とにもかくにも、いろいろな理由によって、食べ物の満ち足りない時期が何回かあると、赤ちゃんの潜在意識の方向が「体の要求によって食べるという自然の性質」からはなれていき、「満ち足りない時期」に備えるようになるのだという。こうして食べ物が与えられたときに「ともかく食べておく」という不備に備えた食べ方が形成されていくのだが、このことは逆に見れば、赤ちゃんの潜在意識に「欠乏」が刻印されることになるのだ。
…赤ちゃんの時代からその潜在意識の中にそういう欠乏を教えないことである。食べ物はお腹が空けば自然に与えられるというような、絶えず赤ちゃんに快い状況で、産まれてから十三ヵ月間を育てると、あまり意地の汚い子供にはならなくなると思うし、大人になってもそう食べ過ぎや飲み過ぎをやらなくなってゆくだろうと思う。
みんな「食べ過ぎた、食べ過ぎた」と言うけれども、それはお腹の壊れるまで、ともかく詰め込んでいないと不安だったという、そういう不安をいつも抱えていた意気地のない気持ち、惨めな心の反映なのである。…野口晴哉『潜在意識教育』全生社、1966年
体のことを知り尽くしていた野口晴哉が「食べ過ぎの心理」を<欠乏感>に見出したことに、ぼくは学びとともに、深い納得感を得る。体のことを知り尽くしていても「心」は知らないんじゃないかという声が出るかもしれないが、そうではない。体のことを知り尽くしていたからこそ見出される「心」なのだ。つまり、冒頭に書いたように、<体は食べすぎることはできない>ということを知っているからこそ、そこを基礎として<欠乏感>という不安にたどりついたのであった。
「食べ過ぎの心理ー乳児期の欠乏と潜在意識の方向」の節を、野口晴哉はつぎのように閉じている。
今日のように何でも潤沢にある世の中になっても、そういう気性が残るのは、逆にいえば潜在意識内の欠乏を埋めようとする絶え間ない動きで、そういうものが仕事の上に、何とかもう一つやってやろうというようになるのだと思うので、或る意味の欠乏は子供の向上心をつくる上に悪いとはいえないけれども、食べ過ぎるようになるまでに欠乏に追いやることは考えものだと思う。しかし食べ過ぎということは本当はないはずで、あり得ないのである。それなのにあるということは、それは体の自然の現象ではなくて、潜在意識教育の結果、親が子供の体を歪めてしまったためである。
野口晴哉『潜在意識教育』全生社、1966年
「潜在意識内の欠乏を埋めようとする絶え間ない動き」は、食べ過ぎることに限らず、さまざまな分野・領域にまでひろがっている現象であるように、ぼくは思う。野口晴哉が書くように、「或る意味の欠乏」は向上心とつながるのであろうが、欠乏感と向上心の組み合わせは、とても気をつけなければならない。このような「欠乏感」を、世界の「豊饒さ」への感知へと置き換えながら、ぼくたちの「体」への信頼を含め、人生や世界を信頼してゆくことのなかに、ぼくたちは「世界」の違う風景を見るのだ。