「書物の現在」(真木悠介)。- 真木悠介にとっての「書物」。『気流の鳴る音』の電子書籍化の折に。 / by Jun Nakajima

1977年に世界に放たれた、真木悠介(社会学者である見田宗介の筆名)の名著『気流の鳴る音 交響するコミューン』(筑摩書房、1977年)。

この本の「ちくま学芸文庫」版の背表紙には、この本の紹介として、つぎのように書かれている。


「知者は<心のある道>を選ぶ。どんな道にせよ、知者は心のある道を旅する。」アメリカ原住民と諸大陸の民衆たちの、呼応する知の明晰と感性の豊饒と出会うことを通して、「近代」のあとの世界と生き方を構想する翼としての、<比較社会学>のモチーフとコンセプトを確立する。

真木悠介『気流の鳴る音』≪ちくま学芸文庫版、2003年≫


『気流の鳴る音』については、ぼくもこれまでにいろいろなブログで書いてきた。主題的に書いたブログとしては、たとえば、つぎのようなブログがある。


「「分類不能の書」との出会い。- 真木悠介『気流の鳴る音』のどこまでもひろがる魅力。」(2018年11月21日)

「生きかたにかんする「必読書」の一冊。- 真木悠介『気流の鳴る音』という必読書。」(2018年10月25日)

「「若い人に贈る一冊」を選ぶとしたら。- 真木悠介『気流の鳴る音ー交響するコミューン』。」(2017年11月4日)


『気流の鳴る音』は、ぼくの深いところにまで、影響を与えつづけてきた本である。影響されたのは、きっと、ぼくだけではないと思う(影響された本として『気流の鳴る音』がとりあげられているのをときどき読む)。

この『気流の鳴る音』は『真木悠介著作集第Ⅰ巻』(岩波書店)としても出版されているが、その「ちくま学芸文庫」版が、電子書籍として、世に放たれる(BookWalkerでは2018年12月7日)。

この名著が、いよいよ「電子書籍」となる。時代の変遷を感じるとともに、真木悠介先生はどのように思っておられるのか、と想像してしまう。というのも、真木悠介は「書物」に特別な思いをよせているからだ。

ちなみに、見田宗介の著作の電子書籍は、ぼくの知るかぎり、現在(2018年12月6日現在)のところ、『現代社会の理論』『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(いずれも、岩波新書)、『まなざしの地獄』(河出書房新社)、大澤真幸との共著『二千年紀の社会と思想』(atプラス叢書)がある。このうち、『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)は、2018年に電子書籍化され、内容の一部が更新されている。

このように、見田宗介の著作はすでに「電子書籍」があり、その意味で『気流の鳴る音』の電子書籍化は「初めて」のことではないけれど、第一に、真木悠介名での著作(世に容れられることを一切期待しない著作)の電子書籍化は「初めて」であり、また第二に、この、1977年の名著の電子書籍化には、よろこばしい気持ちとふくざつな気持ちが、ぼくのなかで混合しているのだ。


「書物」のことについて、真木悠介は、他の名著『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年)が1997年に「岩波同時代ライブラリー」に入ったときの「同時代ライブラリー版への後記」で、つぎのように書いている。


…わたしは初版の本としての装幀を強く愛しているので、この形で読者の手にされたいという願望もあった。けれども書物は、刊行された以上、ある種公共の存在としての規格を与えられてしまうものだから、著者の個人の思い入れのようなものは禁じて、実際上の読者の好便ということを優先することとした。このような著者の心意を感受して下さったライブラリー版の編集者、加賀谷祥子さんの尽力とセンスのおかげで、新しい版はまた、別の美しいものとすることができた。

真木悠介『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年→岩波同時代ライブラリー版、1997年)


『気流の鳴る音』も、「初版の本としての装幀」を、真木悠介は強く愛していたかもしれない。2003年に「ちくま学芸文庫」版になったときも、おなじようなことを考えていたのかもしれない。けれども「公共の存在」としての刊行された書物の規格から「個人の思い入れ」を禁じている側面も、おなじように、あった/あるのかもしれない。

でも、電子書籍化は「装幀が変わる」ということとは異なる面を有し(表紙は画像としておなじであるが、形式がそもそも異なる)、真木悠介がどのように考えているのか、直接、先生に尋ねてみたくなる。

『現代社会の理論』で、「情報化・消費化社会」ということの「情報」と「消費」のコンセプトを徹底的に考察してきたことから、それらの考察からも一貫した論理で、「おもしろい」視点を伺うことができるのではないかと、ぼくは勝手に想像している(なお、『現代社会の理論』ではつぎのように書かれている。「…<情報>のコンセプトを徹底してゆけば、それはわれわれを、あらゆる種類の物質主義的な幸福の彼方にあるものに向かって解き放ってくれる。」)。


ぼくにとっては、『気流の鳴る音』は、「筑摩書房」版の最初の版のかたち(この版で、ぼくの「世界」の見え方がほんとうに変わった)、あるいは「ちくま学芸文庫」版のかたち(この版とともに、ぼくは現実の世界、アフリカもアジアも生きてきた)として、これまでの20年ほどをともに生きてきたから、さらにそこには個人の思い入れがある。だから、そのようなかたちで、これからも、この生をともにしたいと思う。

けれども、電子書籍はこれからますます主流になってゆくとぼくは思うし、また環境・資源問題をまえに、本を含め「ペーパーレス化」は大切なことだとも思う。さらに、見田宗介の書くように、「…<情報>のコンセプトを徹底してゆけば、それはわれわれを、あらゆる種類の物質主義的な幸福の彼方にあるものに向かって解き放ってくれる。」という地平をいっそう見定めていきたいと思う。


ところで、上述の文章のすぐあとに、括弧をして、真木悠介はつぎのように書きたしている。


…(書物は、その存在自体によって、手にする者に直接的な幸福をあたえるものでなければならないとわたしは考えている。それが書物の現在である。)

真木悠介『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年→岩波同時代ライブラリー版、1997年)


「書物の現在」。「時間」を徹底的に考察してきたこの著書とも共振する仕方で、真木悠介は「書物」を語っている。それは、書物がなにか将来の「利益」になるとか以前に、この<今、ここ>において「直接的な幸福」をあたえるものであること。ぼくも、心から、そう思う。それは、電子書籍であっても、おなじである。