だいぶ昔に読んだ本で、また読みたくなるような本。そして読みたくなって、その本をふたたび手に入れて、読んでゆく。ぼくにとってのそんな本の一冊に、シュリーマン『古代への情熱ーシュリーマン自伝』村田数之亮訳(岩波文庫、1954年)がある。
ぼくが最初に『古代への情熱』を手にとったのは、おそらく、10代のころの学校の夏休みかなにかの折に、「読書感想文」用の図書としてであった。当時は学校の授業をのぞいてはほとんど「本」を読まず、読書感想文用の図書リストのなかから、なんとか、少しは読みたいと思う一冊をと思いながら、「古代への情熱」という名前に魅かれて、ぼくはシュリーマンの『古代への情熱』を手にとったのだと記憶している。
小さいころから、「ここではない、どこか」を時間的に、あるいは空間的に思いっきりひきのばしたようなものが好きであった。時間的に(過去のほうへ)ひきのばせば、それはたとえば「古代」になるし、空間的にひきのばせば、それはたとえば「宇宙」になる。だから、「古代」ということばにも、どこか魅かれるのであった。
なお、すてきな名前のタイトルだけれども、「古代への情熱」というタイトルは、原著の書名ではない。本書はシュリーマンの「自叙伝」の訳であるのだけれど、それはもともと著書『イリオス』(1881年)に収められていた文章であり、自叙伝的な文章は「少年時代と商人時代」の章にあたる。
「少年時代と商人時代」の章はそれほど長くないが、今回、この章を読んでいて、ぼくはとても楽しく読むことができたし、また、シュリーマンはこんなことを言っていたんだ、こんなふうに行動していたんだという「発見」を、ぼくはいくつもすることになった。そのような「発見」にたちどまっては、ぼくは深く考えさせられることもあったのだ。
それにしても、40歳をすぎたころから、ぼくはなぜか、「読書感想文」用の図書としてずっと前に読んだ本を読みたくなり、ぼくはそのような本をじっさいに手にとっては、読んでみるのだ。シュリーマンの『古代への情熱』もその一冊であり、そのほか、ヘルマン・ヘッセの本だったりする。
そのような「状況」が、ぼくと昔に読んだ本たちの<あいだ>に生まれつつあるとき、思想家・武道家の内田樹の書く文章のなかで「テクストと読み手の相互的なかかわりあい」について書かれたことばが、ぼくの、この状況と経験にひびいてくるのであった。
内田樹は、「自称弟子」として慕う「師」である哲学者レヴィナスの発することばのなかから、「テクストと読み手の相互的なかかわりあい」にかんする箇所を引用している。
レヴィナスは、つぎのように述べている。
私たち現代人もしばしばこう言わないだろうか。「こんな状況になったせいで、パスカルのあのことばの意味がやっと分かった」とか、「モンテーニュのあのことばの意味が分かった」とか。偉大なテクストが偉大であるのは、まさしくテクストに導かれて事実や経験に出会い、その事実や経験がテクストの深層を逆に照らし出すという相互作用のゆえではないだろうか(QLT,p89)。
内田樹『他者と死者ーラカンによるレヴィナス』(文春文庫)※「QLT」は、レヴィナス『タルムード四講話』内田樹訳(国文社、1987年)
「人は「事実や経験」への出会いによって、いろいろな本やテクストが「分かる」ようになる」と人は思うだろうが、レヴィナスは、その「前段階」として、「事実や経験」への出会いのまえに、「テクストとの出会いと導き」があるのではないかと述べている。そのように、テクストと読み手の<相互作用>をとらえている。
もう少しわかりやすくするために、このレヴィナスのことばの引用につづいて書かれる、内田樹の事例も挙げておこう。
…夏目漱石を少年期に読んだときと、中年になってから読んだときとでは、テクストの表情は一変する。私たちは同じテクストにまったく別の相貌があることを知る。そして、もし私たちが「大人」になったせいで漱石のテクストを読めるようになったのだとしたら、その成熟には、少年期に漱石を読んだ経験がすでに関与しているのである。
内田樹『他者と死者ーラカンによるレヴィナス』(文春文庫)
この事例は、シュリーマン『古代への情熱』というテクストとぼくとの<相互作用>と重なるように、ぼくはこの箇所を読みながら思ったのだ。今回30年ちかくぶりに『古代への情熱』を読みながら、ぼくはそこに「まったく別の相貌」があることを知る。いろいろな「発見」を、ぼくはするのだ。でも、そのことは、この30年ちかくの「経験と成熟」だけでなく、10代にシュリーマンを読んだ経験が「すでに関与している」というのだ。
そんなことを考えていたら、「そんなこと」もあるだろうなと、ぼくは思うのであった。シュリーマンだけでなく、ヘルマン・ヘッセの「テクスト」をいっそうの深みにおいて読むことのできる経験においても、あの当時の「テクストとの出会いと導き」があったのだということもである。「そんなこと」もあるのだ。
そんなふうにして、「テクストと読み手」の<相互作用>を、じぶんが生きてきた時間のなかに見出してゆくのもおもしろいと思う。「本」というのは、だからいっそうに深いものだとぼくは思い、また、じぶんを変えてしまうような「本との出会い」はとても幸福なことだとも思う。
と、書きながら、一見すると、明確にじぶんを変えるような本でなくとも、本と出会い、その本を手にとって、ページをひらくとき、そこにはその後の人生の道ゆきをつくってゆくのような<相互作用>がはじまっているのだとも、思ったりするのである。