ネット社会だからこその「関係性の回復」(河合隼雄)。- 「出会いへの欲求」に基礎をおく関係性(真木悠介)へ。 / by Jun Nakajima


河合隼雄・南伸坊『心理療法個人授業』(新潮文庫)の文庫版「おまけの講義」として、「関係性の回復ーネット社会こその相当の努力を」と題された、短い記事が掲載されている。

2004年6月、東京新聞に掲載された文章である。

10年以上前の記事であるにもかかわらず、書かれていることは、今でもその言葉の内実はうすれていない。

インターネットが悪い・よくないなどということではなく、文明の進歩を享受するためにも、「相当な努力」をして、あらゆる人間関係における「関係性の回復」をすることの重要性について、河合隼雄は書いている。

 

インターネットを通じたコミュニケーションの難しさは、直接的なやりとりでは、ある程度の「調整」が入る。

言語だけではない、非言語的なコミュニケーション(表情や身振りなど)が作動するからである。

このことはよく言われることだけれど、河合隼雄が強調していることは、次のことである。

 

…ここでもっと強調したいことは、人間の関係の在り方によって、人間の考えることや感じることも変わってくる、ということである。これは、私の行っている心理療法の根本と言っていいかもしれない。

河合隼雄・南伸坊『心理療法個人授業』(新潮文庫)

 

機械の操作で物が動くように、人間関係においても、自分が相手を操作したり、支配したりする関係になろうとすることに、河合隼雄は警鐘をならす。

そのような人間関係において、河合隼雄が言うところの「関係性」(=人間と人間の間に生じる相互的な心の交流)が喪失してしまう。

 

 インターネットの書き込みには、「関係性」の喪失の上に立ってなされるので問題が多い。…

河合隼雄・南伸坊『心理療法個人授業』(新潮文庫)

 

「関係性」ということで、思い出すのは、社会学者である真木悠介が、名著『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)で語っていた、「関係の実質」ということである。

真木悠介は、差別語が「差別語」とならない現実の関係性にふれて、そこには本人を傷つけないだけの「関係の実質」があるからだと書いている。

また、同書における「出会うことと支配すること」という論考で、「他者と関係するときに抱く基本の欲求」について、論理的に述べている。

 

 われわれが他者と関係するときに抱く基本の欲求は、二つの異質の相をもっている。一方は他者を支配する欲求であり、他方は他者との出会いへの欲求である。操作や迎合や利用や契約は、もちろん支配の欲求の妥協的バリエーションとしてとらえられうる。

真木悠介『気流の鳴る音』筑摩書房、1977年

 

そうした上で、真木悠介たちが構想していた「コミューン」は、この二つの異相のうちの「出会いへの欲求」に基礎をおく関係性である。

ここで、河合隼雄が言うところの「関係性」と、その回復ということにつながってくる。

人を傷つけないだけの「関係性」があるところでは、インターネットのコミュニケーションは上滑りしなくなる。

もちろん、すべての人たちの関係性を構築できるということではないと思うが、「出会いへの欲求」に基礎をおく関係性を実際にもっているかいないかは、直接に知らない人たちとのインターネットでのコミュニケーションの実質を変えていくだろう。

 

この「関係性」への視点から、ぼくのミッションにおける「世界」は「世界(関係性)』というように書いている。

「世界」は、関係の網の目であり、その関係性を豊かにしてゆくところに未来は構想され、また現在は生きられる。