南伸坊が河合隼雄から心理療法を学ぶ(『心理療法個人授業』)。- 対話と関係から生まれる言葉と学びの深さ。 / by Jun Nakajima

イラストレーターの南伸坊(みなみしんぼう)が「個人授業」で学問を学ぶ著書シリーズがある。

生物学個人授業(岡田節人)、免疫学個人授業(多田富雄)、解剖学個人授業(養老孟司)、それから心理療法個人授業(河合隼雄)がある。

河合隼雄の著作たちを読みすすめていくなかで、シリーズにおける『心理療法個人授業』(河合隼雄・南伸坊、新潮文庫)に出会った。

 

河合隼雄が「先生」で、南伸坊が「生徒」である。

南伸坊が、河合隼雄から「個人授業」で心理療法や臨床心理学を学び、レポートを書く。

河合隼雄がレポートに対して応答する。

第1講から第13講にわたる内容は、「専門書」ではない、対話形式から生み出される、根本的なトピックに充ちている。

以下のような「講」のタイトルを見るだけでも考えさせられる。

 

第1講 催眠術は不思議か?
第2講 頭の中味をを外に出す
第3講 心理学は科学か?
第4講 心理療法は大変だ
第5講 心理療法とヘンな宗教
第6講 謎の行動、謎の言葉
第7講 人間関係が問題
第8講 心理療法と恋愛
第9講 箱庭を見にいった
第10講 「物語」がミソだった
第11講 わかることわからないこと
第12講 ロールシャッハでわかること
第13講 やっとすこしわかってきたのに

河合隼雄・南伸坊『心理療法個人授業』新潮文庫

 

心理学も心理療法も知らない南伸坊の視線・視点、南伸坊のするどいレポート、対話の中に言葉を生む河合隼雄。

「そもそも心理学とは?」ということから、講をすすめていく内に、南伸坊と河合隼雄とのあいだの関係性、また南伸坊の「気づき」が深みを増していくのを感じることができる。

人が生きていくための心理の「学」が語られている。

 

ぼくのフォーカスである「物語」については、講義も終わりに近づく「第10講」で、南伸坊が予感に充ちた気づきで「物語」のトピックを取り上げて、河合隼雄にぶつけている。

南伸坊は、「なるほどなァ!」とわかった気になりながら、そもそも「物語」とはなんだ、と考える。

南伸坊はそんなことを語りながら、次のようにも語る。

 

「人生に予め意味などない」
という意見に、私は合点していたのだったが、予めないからこそ、意味をつくろうとするのだともいえる。
 なんだか、茫々としてくる思いだ。いままでこんなことを、考えたこともなかった。

河合隼雄・南伸坊『心理療法個人授業』新潮文庫

 

生きることの「物語」を真摯に考え始めた人の言葉が、ここに興味深く湧いている。

河合隼雄は、あらためて、臨床心理学における「物語」の大切さを書いている。

 

…われわれ臨床心理士のところを訪れる人は、いわゆるビョーキとか異常などというのでない人(大人も子どもも)が多くなってきた。それは、南さんが詳しく書いているように、それぞれの人が自分自身の「物語」をいかように生きるか、ということを相談に来て居られる、とも言えるだろう。

河合隼雄・南伸坊『心理療法個人授業』新潮文庫

 

両親と別れて住んでいる子供が、「お父さんは大金持だ」とか「お母さんは女優なの」と言うことに対して、これらは「虚言癖」ではなく、そのような「物語」に支えられて子供たちはなんとか生きているという、暖かい視線を投げかけることを、河合隼雄は提示している。

 

講義は、最後の3講で、心が「わかる」と「わからない」という二つの側面を語っている。

これら二つを、共に、謙虚にひきうけていくことの中に、河合隼雄の心理療法の本質がつめられている。

 

 南さんの「わかる」に「わからない」を「つなげる」というのは、本当にいい言葉である。われわれ臨床心理士の仕事の本質がうまく言い表されている。…
…「わからない」と自覚する謙虚さが必要だが、これは、自信がないのとは、全く異なる。自信のないのは、はなから何もわからない人である。「わかる」に「わからない」をつなぐ人は、「わかる」自信と「わからない」謙虚を共存させている。…
 すぐにわかりたい方は、こんな本など読まず、本屋に行けば、御要望に応える本は、ありすぎるほどある。…

河合隼雄・南伸坊『心理療法個人授業』新潮文庫

 

レポートで南伸坊も書いているように、河合隼雄の言葉を引用しようとすると、あれもこれもで、尽きることがないから、どこかで禁欲しなければならない(ぜひ購入してお読みください)。

それくらい、「本当にいい言葉」で充ちている。

それだけ、「大変な」世界をくぐりぬけてきているのだと、ぼくは感じる。

 

文庫版には「おまけの講義」で、ネット社会における「関係性の回復」について、河合隼雄が書いた記事が掲載されている。

ここにも、言葉の宝物が埋まっている。

別のブログで、このことについては、ふれたいと思う。