心理学者・心理療法家の河合隼雄は、この世を去る直前に、作家の小川洋子と「対談」をしている。
その「対談」は2回行われ、そこで「次回またやりましょう」というように将来の対談にひらかれながら、その次回が来ることはなかった。
この2回の対談は、河合隼雄・小川洋子『生きるとは、自分の物語をつくること』(新潮文庫)として成り、上記のような事情から、小川洋子の「少し長すぎるあとがき」が付されている。
河合隼雄の晩年におこなわれたこれら2回の対談と、小川洋子の「少し長すぎるあとがき」は、ほんとうに多くの「種子」をぼくの中に、そしてこの世界に投げかけてくれている。
あまりにもたくさんのインスピレーションに充ちた言葉たちを前にしながら、ぼくという個人に強く交響する「語り」は、「個性」のあらわれについてである。
「厳密さと曖昧さの共存」ということを、河合隼雄と小川洋子が語るところがある。
小川洋子は、科学技術の発達の限界に触れながら、厳密さよりも曖昧さの方が人間を楽にしてくれるのではないかと、河合隼雄に向けて言葉を届ける。
河合隼雄はそのことに共感しながら、「厳密さと曖昧さの共存」への人生観と世界観の創出を考えている。
…それを共存させるような人生観、世界観がないかっていうことを、今ものすごく考えているんです。人間は矛盾しているから生きている。全く矛盾性のない、整合性のあるものは、生き物ではなくて機械です。命というものはそもそも矛盾を孕んでいるものであって、その矛盾を生きている存在として、自分はこういうふうに矛盾してるんだとか、なぜ矛盾してるんだということを、意識して生きていくよりしかたないんじゃないかと、この頃思っています。そして、それをごまかさない。
河合隼雄・小川洋子『生きるとは、自分の物語をつくること』新潮文庫
人間が生きることの「矛盾」から目をそらさずに、またごまかさずに、そこを直視すること、そしてそれ自体を生きること。
この箇所に続く、河合隼雄の言葉が、ぼくの中で、強く交響する。
…「その矛盾を私はこう生きました」というところに、個性が光るんじゃないかと思っているんです。…そしてその時には、自然科学じゃなくて、物語だとしか言いようがない。…自然科学の成果はたとえば数式になったりして、みんなに通用するように均一に供給できる。そして、それで個が生きるから、物語になるんだっていうのが、僕の考え方です。
河合隼雄・小川洋子『生きるとは、自分の物語をつくること』新潮文庫
矛盾をどう生きるかというところに、個性が光る。
そして、そこに「物語」が出番となる。
この認識と考え方は、ほんとうに透徹されたものだと、ぼくは思う。
それにしても、生きることの「矛盾を私はこう生きました」というところに個性が光るという認識は、「個性」ということをとらえなおす上で、ぼくをとらえてやまない。
「次回続きをやりましょう」というようにひらかれた対談はこの世界では続くことはなかったけれど、続けて語られたであろうトピックは、読者それぞれがひきうけて、日々のなかで「語る」という空間へと投げ放たれてある。
矛盾をどう生きるかに個性があらわれること、そこに「物語」が創出すること。
投げ放たれた言葉たちは、確かにひきつがれてゆくだろうと、ぼくは思う。