小さい山に周りを囲まれた海が空からの光をきらめきで映しかえし、その遠くにはかすれるように大海がひろがっている。
このような風景を見るとき、日本の九州の「不知火の海」が風景に重なって、ぼくには見える。
不知火海を、ぼくは実際に自分の眼で見たわけではないけれど、作家の石牟礼道子の作品にあらわれるものとして、ぼくの「眼」をつくっている。
ぼくの眼に「石牟礼道子の眼」が重ねられるのだ。
不知火の海は「水俣病」が発生したところである。
ぼくが「不知火の海」を視界に見るとき、人間社会の矛盾が凝縮されながらも、この世界の美の表出を見ているようだ。
2018年2月10日、作家の石牟礼道子は亡くなられた。
ぼくがどこでどのように石牟礼道子のことを知ったかは、よく覚えていない。
水俣病を扱った著書『苦海浄土ーわが水俣病』(講談社文庫)の書名はどこかで知っていたかもしれない。
直接的に石牟礼道子のことを知るようになったのは、社会学者の見田宗介(=真木悠介)の仕事を通じてであった。
見田宗介=真木悠介の仕事における問題意識、そして人を解き放つことの方向性をしめすものとして、石牟礼道子の存在と作品は、見田宗介=真木悠介の存在とその仕事と、深いところで交響するものである。
見田宗介=真木悠介の著作において、たとえば、次のような著作で、石牟礼道子がとりあげられる。
●『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)
●『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年)
●『白いお城と花咲く野原ー現代日本の思想の全景』(1987年、朝日新聞社)
●『現代日本の感覚と思想』(講談社学術文庫、1995年)
●『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)
●『社会学入門』(岩波新書、2006年)
また、見田宗介は石牟礼道子の作品の「解説」や書評的なものも書いている。
●見田宗介「孤独の地層学」(『定本 見田宗介著作集Ⅱ』所収)、石牟礼道子『天の魚ー続・苦海浄土』(講談社文庫版)の「解説」
●見田宗介「石牟礼道子『流民の都』」『朝日新聞』朝刊、1973年(『定本 見田宗介著作集Ⅹ』所収)
見田宗介をはじめ、水俣の問題にかかわってきた人たちは、水俣病を「水俣の病」とするのではなく、「わたしたちの病」としてとらえている。
ひとつの社会を生きるひとびとの「人と人とのつながり方」の問題である(『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫、1995年)。
石牟礼道子が言うように、「わたしたち自身の中枢神経の病」である。
この「病」を、人はどのようにのりこえていくことができるだろうか。
「よりよく生きる」という、ぼくがじぶんに問うてきた問いは、こののりこえを考るための問いでもある。
石牟礼道子の文章について、見田宗介は次のように書いている。
石牟礼道子の文章は、失語の海の淵からのことづてのようだ。みえないものたちの影をみる視力のように、語られないものたちを語ることばをよびさます。<区切られないもの>の矛盾と多義性をじぶんの中に幾層にも響かせながら、それでも石牟礼は、あえて言い切ることもする。<おかしくならずにいられるだろうか>、こういう断念の一切を澄ませたうえで、そしてまた、人間の上を流れる時間の一切が砂に埋もれ<地質学の時間のように眺められる日>からの視線をもうひとりの自分の視線としながら、<人間はなお荘厳である>と、石牟礼は言う。海はまだ光っていると。
見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫、1995年
石牟礼道子の作品『椿の海の記』のふしぎな世界にひたっていると、この「海の光」が浮かび上がってくるように、見えてくる。
石牟礼道子の視線は、ぼくの視線にかさなって、生きている。