「人とのつき合い」における<全体性>とも言うことのできる視点を、著書『こころと人生』(創元社)で河合隼雄は述べている。
河合隼雄が俳句を始めようと句会に参加したら、いろいろな人たちがいろいろに言ってくる。
はじめてにしてはうまい、と言ってくれる人もいれば、いやみを言う人もいる。
俳句とはぜんぜん関係のない話をしてくる人もいる。
悪口を言う人もいて腹が立つこともあるけれどと前置きをしつつ、そうしたことの全体が「私が生きている」ということだとわかってくるということを、河合隼雄は、この文章の元となった講義で、冗談をまじえながら聴衆に語りかけている。
…「私が生きている」といっても、一人で生きているわけじゃないですから、この人ともこの人ともみんな関係がある。その中で私が「いい句ができたなぁ」と思って喜んでいるときに、パッと悪口を言ってシュンとさせる人というのは、考えたら「私が生きている」ということにものすごく大事な人なんですね。
河合隼雄『こころと人生』創元社
シュンと言ってくれる人がいないと天狗になってしまうこともあるなかで、天狗になりかけたときに、そのような人が現われることで「全体のバランス」のようなものがある、と。
河合隼雄は、生きることで一見「面白くない」体験を、全体性のなかで「面白い」体験に転回する視点を語っている。
この話につづいて、「人」だけにかかわらない視野へと、河合隼雄は視線を上昇させていく。
…極端にいえば自分の周囲にある草でも、鳥でも、石でも、木でも、みんな自分と関係がある。そして、みんなで「私」というものをつくってくれているというか、「私」というものをやってくれているんじゃないかというふうに、僕はこの頃思います。
河合隼雄『こころと人生』創元社
「私」というものをつくるってくれているというか、「私」というものをやってくれている。
「私は他者である」(例えば、良心の声は両親の声)ということが、ここでは徹底されて、「私」というものをやってくれるものとしての「まわり」の全体性が語られる。
この表現の鮮烈さと深さに、ぼくは心の中でうなってしまう。
河合隼雄はそのような体験の例として、自分の家に帰るときの「風景」を挙げている。
いつもであれば、どこかの家の松の木が見え、何気なしに通りすぎている風景において、ある日突然に松の木が見えなくなる。
訊いてみると、ある理由で切ってしまったということを知って、残念な気持ちがおしよせてくる。
この気持ちは、ぼくも昨年(2017年)、ここ香港で、身にしみて感じていた。
香港にやってきた台風が、一夜にして、これまで悠然と立っていたかのような木々を倒してしまった。
倒れかかった木々は危険だから、取り除かれてしまい、そこには、ぽっかりと空間ができてしまったことに、ぼくは残念な気持ちと寂しさを感じたものだ。
同時に、これまでの何気ない風景に、ぼくは生かされていたということを知ることになった。
最近、残った木々たちはその力強さを取り戻してきているように、ぼくには見えていた折、ぼくは河合隼雄のこの文章に出会った。
河合隼雄は次のように、語っている。
…どういうことかというと、その松の木はそれまで、自分の人生を支えるひじょうに大事なものとして存在していたということです。
そんなふうに、「いろんなものがまわりで自分を支えてくれている」というふうに思えるようになってきたら、普通の社会でいうような意味での「お金が儲かる」とか、「子どもがどこの大学へ行っているか」とか、そんなことだけじゃなくて「私はちゃんと生きています」という感じが、だんだんとしてくると思います。…
河合隼雄『こころと人生』創元社
「私」というものをまわりがやってくれている。
そのことを、「私」が失くなってしまい自我がくずれおちていくように感じるのではなく、逆に、「私」を豊饒化しているのだと感じるような<全体性の視力>を、河合隼雄はわかりやすい言葉で、しかし経験を深いところで生きてきた人しか語れない言葉で、語ってくれている。