社会学者である真木悠介(見田宗介)は、『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年)と『自我の起原』(岩波書店、1993年)の二つの仕事を通して、自身が持ち続けてきた「原初の問い」に対して、「透明な見晴らしのきく」ような仕方で、自身の展望を得たことを、『時間の比較社会学』の岩波同時代ライブラリー版(1997年)の「後記」で書いている。
「原初の問い」とは、「永遠の生」を願望としてしまうという問題と、「自分」という唯一かけがいのないものとして現象してしまう理不尽な問題である。
見田宗介の仕事を<初めの炎>として駆動してきた原初の問いは、一貫して追求され、自身が納得のいく仕方で書かれ、その成果が「本」という形で世に放たれる。
「後記」の最後は、次のような、美しい文章でとじられている。
わたし自身にとって納得のできる仕方が、他の人にとって、さまざまな角度と限界をもちながら、いくつもの光源の内の一つとなることができるなら、すでに過剰の幸福である。更に、問題感覚の核を共有することのできる読者が一人あるなら、そしてこのような一つの問いの、核心にことばが届くということがあるなら、それは書くものにとって、奇蹟といっていい祝福である。
真木悠介「同時代ライブラリー版への後記」『時間の比較社会学』(同時代ライブラリー版)(岩波書店、1997年)
この「後記」を読みながら、20年ほど前のぼくは、思わずにはいられなかった。
ぼくのような「読むもの」にとって、ぼくの問題感覚の核に向けてことばが紡がれ、そして問いの核心にことばが届くということは、「奇跡といっていい祝福」である、と。
当時のぼくは、この世界において、ほんとうに光を得たような感覚を得たものだ。
そして、今度は書く側に立って、断片やまとまった文章を書きながら、真木悠介が考えていたことを思う。
他者の問いの、核心にことばが届くということの、「奇跡といっていい祝福」についてである。
ことばが伝わっていくルートには、「さまざまな角度と限界」があるからである。
真木悠介が語るような角度と限界、つまり他者にとっての大切な生きられる問題や経験との差異や深浅などもある。
またそもそも、その本を手に取るか否かという限界性もある。
毎日毎日文章を書きながら、そしてこの度は「本」という形で文章を書いて構成しながら、ぼくの脳裏に、真木悠介のこの「後記」がよぎってくる。
そして、それは、ぼくを励ましてもくれている。