著書『アルケミスト』で有名な、ブラジル生まれの作家パウロ・コエーリョの別の作品『第五の山』(角川文庫)のなかで、子どもが大人に教えてくれることについて、次のように書かれているところがある。
…子供は常に三つのことを大人に教えることができます。理由なしに幸せでいること。何かでいつも忙しいこと。自分の望むことを、全力で要求する方法を知っていることの三つです。
パウロ・コエーリョ『第五の山』角川文庫
これらの3つのことは、「大人」という時期をくぐりぬけていく人間をからめとってしまう「罠」の存在を、ぼくたちに教えてくれる。
第一に、大人は、なかなか「理由なしで」幸せになることができない。
何かを得ることで、あるいは何かを達成することなどで、人は「幸せ」を感じる。
しかし、やがて、その「幸せ」はフェードアウトし、他の物事を永遠と追い求めていきがちである。
第二に、大人も常に「忙しさ」のなかにあるけれど、子どもの生きる忙しさとは異なっている。
子どもは「wonder(驚き、知りたいと思うこと)」に駆動されながら、忙しい。
20世紀後半に「Mister Rogers’ Neighborhood」というアメリカ教育番組のホストであった故Fred Rogersは、かつてインタビューで、現代社会が、「wonder」ではなく、あまりにも「information(情報)」にばかり関心をもってしまっていることへの警鐘をならした。
子どもに正面から向き合ってきたRogersは、「wonder」に充ちた番組をつくってきた。
第三に、大人は、「自分の望むこと」をいくぶんかあきらめ、「望むこと」がわからなくなり、あるいは「望むこと」をじぶんの底におしこめる。
また、「望むこと」が明確であっても、いろいろにブロックをかけて、全力で要求(あるいは助けを求めること)をしない。
子どもたちは、それらをすりぬけるようにして、全力で要求をぶつけてくる。
これら三つの「教え」は、大人の生き方の様相を相対的に照射するだけでなく、大人が子どもをまなざす際の「視線」のあり方のようなものを教えてくれている。
これら三つの見方・視点をもって子どもに真摯に接するだけでも、子どもに接する仕方の質的な差がでてくるようにも、思われる。
しかし、現代社会は、「子ども」という時期をすでに解体してきているような様相を呈して、現れている。
養老孟司は、80年生きてきたなかで、都市化(脳化=社会化)のなかで「なくなったもの」として、次のものを挙げている。
私が八〇年生きてきて、その間になくなったものは確かにあります。例えば子どもの遊び場がそうです。もう「子どもの遊び場」という表現がなくなりました。なくなり始めた頃には異議申し立てが絶えずあったのですが、「子どもの遊び場がなくなる」なんて今は言いません。なくて当たり前になりました。子どもが子どもとして生きる権利は完全に奪われましたね。
現在の都市化はそうしたことをほとんど無視するかたちで進んでいます。…
養老孟司「煮詰まった時代をひらく」『現代思想』2018年1月号
子どもたち自身に目を転じても、早くの時期から、「何かを達成・獲得」することのループになげこまれ、「wonder」を解き放つ学びよりも「情報」の海を泳ぐことを余儀なくされ、また、自分の望むこともあるいはそれを全力で要求する力もただ頭ごなしに「抑制」されるような生活に生きているようにも思われる。
大人がこれらを子どもの内にだけでなく、自身の内に解き放つことを通して、「世界」はwonderにみちびかれるひとつの奇跡として現れてくるところに、ただ今と、これからの時代をひらいていくことができる。