「silence」(沈黙・静寂)ということをかんがえる。
「Mister Rogers’ Neighborhood」というアメリカ教育番組の司会者であった故Fred Rogers(フレッド・ロジャース)は、かつてインタビューで、現代社会が、「wonder」(おどろき)ではなく、あまりにも「information(情報)」にばかり関心をもってしまっていること、また「silence(沈黙・静寂)」ではなく、あまりにも「noise(ノイズ)」に充ちていることに対して、警鐘をならした。
ロジャースの静かだけれど凛とした声は、ぼくの心に直接に届くひびきをもって、伝わってくる。
「沈黙」でつらぬかれた有名な作品「4’33’’」を創った音楽家のジョン・ケージにとって、沈黙はいわゆる沈黙ではない。
…ジョン・ケージは沈黙は環境に存在するあらゆる音の一瞬の総和であると語った。彼は同じことを、「沈黙は生きている」と表現することもできた。
デリック・ドゥ・ケルコフ『ポストメディア論』NTT出版、1999年
沈黙が、時空間の「欠如」と捉えられがちな現代とは異なり、そこには「あらゆる音の一瞬の総和」とみる反転の視点が鮮やかに提示されている。
沈黙におかれるとき、ぼくのなかでときおり、ジョン・ケージのこの反転の視点があらわれる。
「愛の変容/自我の変容」と題された文章で、社会学者の見田宗介は「現代短歌の感覚と思想」を追いながら、最後に二つの短歌を取り上げて、そこに、現代を超えていくことのある種の「乗り越え」のイメージをとりだしている。
ためらわず車椅子ごと母を入れナース楽しむねこじゃらしの原 吉田方子
「愛」ではなく奉仕ではなく献身ではなく親切ではなく感謝ではないような仕方で、三人は自由に結び合っている。ねこじゃらしの原に酩酊することで、人と人との間にしかれているという国の境を越境している。
それぞれにそれぞれの空があるごとく紺の高みにしずまれる凧 渡辺松男
<孤高>ではなく<連帯>ではなく、複数の存在が存在しきっている仕方。
見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫、1995年(※その後、見田宗介『社会学入門』岩波新書に加筆して収録)
「ねこじゃらしの原」も、「紺の高み」も、いずれも、ノイズではなく、沈黙・静寂のなかに風景がおかれている。
しかし、その静けさは、関係の冷たさを体現するものではなく、逆に、関係の「境界線」がなくなってしまうようなところに顕現している。
20年程前に、ニュージーランドの自然を歩きながら、人は静寂や寂しさのようなものを克服する(逃れる)ようにして「都会」をつくったのかもしれない、という想念がかすめる。
都会の喧騒と彩りがとても魅力的に映り、また都会に戻って来るとぼくの自我は「安心のような感情」を抱いたりする。
しかし都会に長くいると、そのノイズに疲れてしまう。
今は、都会と自然という切り分け方そのものが、「情報テクノロジー」の世界のなかでは、その境界線をあやふやにしている。
どこにいても、人はいつのまにか「情報の渦」のなかに投げ込まれてしまう。
だからときには(あるいは日常に)、「沈黙」に身体をさらしたい。
それは欠如に身をおくことではなく、「あらゆる音の一瞬の総和」とでも呼べるような、また存在の境界線がなくなるような、そのような時空である。