村上春樹の「エッセイ」は、「小説」に負けず劣らず、魅力的な文体とリズムで書かれている。
人によっては、小説よりもエッセイに惹かれる人たちもいる。
数々のエッセイのなかで好きな作品のひとつに、『遠い太鼓』(講談社文庫)というエッセイ集がある。
村上春樹が、1986年から3年間にわたりヨーロッパに住んでいたときの「エッセイ」である。
どこからか聞こえる「遠い太鼓」の音色に導かれるように旅立ち、ヨーロッパに住んでいたときの語りである。
文庫版で500頁を超えるこの作品の、ぼくにとっての「魅力性」の源泉は、村上春樹という人間が「生成」していくところに書かれた作品であったというところにあるように思う。
それは、とりわけ、二つのきっかけにおいてである。
- 村上春樹の「四十歳」
- 村上春樹の「初めての海外暮らし」
一つ目は、生きるということの「時間」という契機であり、二つ目は、生きるということの「空間」という契機である。
人は、(ひとまず/さしあたり)「時間と空間」のなかを生きている。
村上春樹にとって、この長い旅の契機のひとつは「四十歳」ということがあったという。
三十七歳で、村上春樹はこのヨーロッパへの長い旅にでる。
四十歳というのは、我々の人生にとってかなり重要な意味を持つ節目なのではなかろうかと、僕は昔から(といっても三十を過ぎてからだけれど)ずっと考えていた。とくに何か実際的な根拠があってそう思ったわけではない。あるいはまた四十を迎えるということが、具体的にどういうことなのか、前もって予測がついていたわけでもない。でも僕はこう思っていた。四十歳というのはひとつの大きな転換点であって、それは何かを取り、何かをあとに置いていくことなのだ、と。そして、その精神的な組み替えが終わってしまったあとでは、好むと好まざるとにかかわらず、もうあともどりはできない。…
村上春樹『遠い太鼓』講談社文庫
そのような「予感」が、三十半ばの村上春樹のなかでふくらんでいき、「精神的な組み替え」が行われてしまう前に、「あるひとつの時期に達成されるべき何か」をしておきたかったこと、村上春樹は書いている。
なお、「四十歳」ということは、三十歳で『風の歌を聴け』によって群像新人文学賞を受賞した村上春樹が、「受賞の言葉」でも語っていた時間感覚でもあった。
…フィッツジェラルドの「他人と違う何かを語りたければ、他人と違った言葉で語れ」という文句だけが僕の頼りだったけれど、そんなことが簡単に出来るわけはない。四十歳になれば少しはましなものが書けるさ、と思い続けながら書いた。今でもそう思っている。…
村上春樹「四十歳になれば」『雑文集』新潮社
『遠い太鼓』を初めて読んだのは、ぼくが三十代の頃(正確に三十代のいつかは覚えていない)であった。
ぼくの根拠のない「予感」も、四十歳というものをひとつの分水嶺のように捉えていたから、そこに親和性のようなものを感じたことを覚えている。
ぼくも四十歳を超えてみて、「精神的な組み替え」が行われたかどうか、そこで何かをとり何かをあとに置いてきたのかをかんがえてみる。
他方で、「四十歳」という分水嶺の「妥当性」のようなこともかんがえてしまう。
人間の身体を生物学的にみたときの変化ということがある一方で、「世代」(三十代、四十代、五十代…)というものが現代世界における「共同幻想」ではないかという思いももたげてくる。
さらには、「100歳時代」の到来のなかで、これまでの四十歳とこれからの四十歳は、生きるプロセスの意味合いを大きく変えてきている。
そのようないろいろな思いとかんがえが交錯するなかで、村上春樹の『遠い太鼓』の世界に、ふたたびふれている。
村上春樹は、このヨーロッパでの3年間で、小説としては『ノルウェイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』を書いた。
村上春樹の「予感」は、『ノルウェイの森』として結実していくことになったわけだ。
ぼくは、四十歳を超えて、やはり、大きな一歩、これまでと異なる一歩を踏み出すことにした。
「四十歳」という分水嶺の妥当性はともかくも、その分水嶺は「物語」として生きてきているように、ぼくは思う。
その物語を描ききれるかどうか、その物語を生ききることができるかどうか…。
村上春樹の『遠い太鼓』のエッセイは、ヨーロッパに住むことの日常の細部それぞれが物語とリズムに充ちている。
そのように日常を生きることのうちに、村上春樹の文章の魅力は生成されている。