朱野帰子の小説『わたし、定時で帰ります。』(新潮社、2018年)(正式な発売の前の「期間限定無料版」)を読む。
本のタイトルであり、作品中にいくども語られる「わたし、定時で帰ります」ということは、デジタルマーケティング会社に勤務する東山結衣のモットーである。
18時の終業時間には必ず仕事を終えることを、三十二歳になる東山結衣は執拗なまでに実践している。
そこに、破格の受注額で仕事を引き受けようとする福永清次という新しいマネジャーが配属され、「ウェブサイトの大幅リニューアル」というプロジェクトが動き出すなかで、いろいろにドラマが展開していく作品だ。
「わたし、定時で帰ります。」という言葉に、人はそれぞれに、いろいろな記憶や感情、そして心のなかで展開する「物語」をいだくであろう。
日本は「働き方改革」のなかにあり、海外の日系企業も異文化との接点のなかで「働き方(またマネジメント)」にいろいろな問題や課題をかかえている。
この本の物語は、人それぞれに違う仕方で響くであろう「働き方」を主旋律にして展開されていく。
人それぞれに多様な捉えられ方をする「多様性」を反映するように、登場人物も多様な背景をもつ個人で設定されている。
このような物語を読むうちにぼくが感じる「違和感」は、仕事の意義や目的などが脇に追いやられていることであるが、そのことが逆に、実際に「働き方」という組織内部のマネジメントに終始しがちな仕事の日常をうつしだしているようにも見てとれる。
その意味において、(良し悪しはさておき)ある程度の働く人たちの「ありがちな目」を通じた風景を意図的に描きだした作品とも言える。
この作品はそのような日常を描きながら、職場の人たちが相互に「誤解」をしている心象風景も描いていることで、人と組織の問題の一端をつかんでいる。
そして「誤解」は、それぞれの人のいわば「偏った見方・バイアス」に絡めとられた形でつくられ、そして言葉や行動に現れる。
東山結衣は、「わたし、定時で帰ります」という<位置>にじぶんを置いたことで、そしてある意味、この「ふっきれた立ち位置」を肯定的に転換させてゆくことで、この誤解に充ちた職場空間に光明を与えてゆくことになる。
読者は「東山結衣」であるかもしれないし「東山結衣」ではないかもしれないけれど、登場人物のある程度の「タイバーシティ」のなかで、いずれかの登場人物にじぶんの心情を重ねながら、あるいは上司や部下を登場人物に重ね合わせながら、物語を読み、何かを見つけ、何かを感じることができるように思う。
登場人物のそれぞれの内面に光をあてながら、そしてそれらいずれもの感情を引き受けようとしながら、ぼくはこの作品を一気に読み終えた。
この物語のなかで、「定時で帰るなんてなんぞや/ありえない」という極と、「とにかく定時で帰ります」という極との<橋渡し>が、どのようになされ、そしてどのように結実していくかを追いながら。