海外に住んでいると、「どれくらい住んでいるのですか?」「来て、どのくらいになりますか?」という質問が、会話のなかで交わされたりする。
そのような質問が交わされる理由として、ただ「相手を知る」ことや会話の進め方を見定めていくための情報収集ということがある一方で、ときおり、「滞在の長さ」を前提とした「相手の意見等の見定めるための<メガネ>」となってしまうようなことがある。
長い滞在をよしとする、滞在の長さの競い合いのような様相だ。
「来て●ヶ月(●年)じゃ、…だよね」というような応答のなかに、優越の響きが聴こえ、聴いている方としては肩身の狭い思いをしたりする。
そのような肩身の狭い思いの経験があるから、ぼくは、このような質問を相手に投げかける側になる場合、「ぼくが尋ねているのはそんな優越のためなんかではなくて、話をしている相手のプロフィールを知るための情報のひとつとして聴いているのですよ」という話し方と声の響きとなるように、気をつけたりする。
「滞在の長さ」ということに戻ると、それはとても相対的なものだ。
どれくらいの期間をもって「長い」と言うのかは、比較対象の長さによってしまう。
ぼくは香港に住んでまもなく11年になるけれど、11年なんて、20年や30年あるいはそれ以上いる方々にとってみれば、なんでもない長さである。
社会学者の真木悠介(=見田宗介)はメキシコに1年ほど滞在していたときのことを、次のように書いている。
旅をする人の観察について、永く住む者の目からは「よく分かっていない」というような批評を目にすることがある。わたしは直感的に、それをイヤミな言い方だと思うことがある。わたし自身、メキシコに1年位いた時に、数日だけ日本から訪れてきてメキシコのことを語ったり書いたりする人のものを、表面的だと思ったこともある。けれども10年位も前にメキシコ人と結婚してメキシコに住みついているT教授などの目からみるなら、1年しかいないわたしの観察など、数日間の旅行者のそれと同じだろう。…
真木悠介『旅のノートから』岩波書店、1994年
真木悠介は、さらに、「22歳かにペルー経由でメキシコに来て50年以上になるという…わが敬愛する大老人」を挙げて、大老人(荻田さん)のただ一つのわるいくせは、10年位しかメキシコにいないT教授のような人も、「何も分かっとらん」ということであったことを書いている。
…その荻田さんだって、先祖代々のメシーカ族の子孫からみれば「旅の人」みたいなものなのに!
そうして旅の人にしかみえない真実というものもある。…
真木悠介『旅のノートから』岩波書店、1994年
真木悠介のとる「時間軸」は、とてもひろい。
「先祖代々のメシーカ族の…」と書く真木悠介の時間軸は、この「先祖代々」というようにひろがってゆく時間に向けられているようにぼくには聴こえ、一人の人間が生きる生涯ほどの時間は、まるですべての人が「旅の人」であるかのように感じさせるところがある。
香港も、香港に長くいることで、見えてくるものもあるように思う。
少なくとも、ぼくにとっては、すぐには見えないこともあった。
しかし、旅人や短期滞在者だからこそ見えるものもある。
旅人や短期滞在者の見たものあるいは語るものが、表層的であるかもしれない。
ただし、長くいることで見える深いものごとも、見方が偏見化され固定化されてしまい、別のものを覆い隠してしまうかもしれない。
「滞在の長さ」は、その土地や環境を知るための、あくまでも、要素のひとつでしかない。
大切なことは、海外というその土地や環境に、じぶんがひらかれる仕方であり、視点や視野の豊饒さと持ち方であり、またオープンさと見方の組み合わせによる柔軟性である。
そしてそのように外部にたいしてひらかれながら(また同時にじぶんにたいしてひらかれながら)、どのようにそこの環境において他者とかかわってゆくのかということが、滞在の長さにかかわらず、大切なことのように思う。