香港で、「海景」をきりとってみる。- 写真家・杉本博司の「海景」の想像力と視力にあこがれながら。 / by Jun Nakajima


香港の風景が、今日は濃い「霧」に包まれている。

霧が風景を覆い、窓から見渡す限り、霧である。

湿度もいっぱいに上がり、ときおり、霧に混じるようにして小雨がちらつく。

 

香港島と九龍側を隔てる海域も霧がたちこめ、ときに、いつもはすぐそこに見える風景が見えない。

そんな海を見ていると、そこは海岸線の涯てのようだ。

海上にたちこめる霧の先には、ただ、広い海原がひろがっているような感覚がどうしても、ぼくから離れていかない。

 

そのような風景にカメラを向けたときに思い出したのは、写真家の杉本博司の写真である。

杉本博司は、1970年代にアメリカ、そしてニューヨークに移り、写真家としての道をあゆんでいく。

杉本博司の作品群のなかに「海景」のシリーズがあり、そのミニマルだけれど、どこか人の深いところとつながるような写真は、ぼくの深いところをうつ。

 

杉本博司の写真集『海景』に掲載される、見田宗介の文章は、1976年のニューヨークで、偶然のようなことで初めて杉本と出会った見田宗介の回想がのせられている。

当時はまだ若く貧しく無名の杉本博司は、倉庫を改造したような建物に住んでいたのだという。

建物と外をつなぐ階段はコンクリートの打ち放しのものだけれど、杉本博司はそのコンクリートに、ふつうの人はみないものをみていたことを、見田宗介は思い起こしている。

 

…階段のコンクリートの水やひび割れの作る微細なしみたちをよく記憶していて、いろんな生命や静物の饗宴をそこに見ていた。とりわけお気に入りの立派な馬がいて、下の階からの踊り場を曲がる以前から、あそこには馬がいるのだと予め高揚していた。…その反還元的情熱は、この時代までのニューヨークの前衛のコンテンポラリーを志向するアーティストたちとは異質のものだったと思う。むしろ天空のランダムに散乱する星たちの中に、馬だの射手だの楽器だのの饗宴を見る文明の原初の人々の想像力に近いものだった。…

見田宗介「時の水平線。あるいは豊饒なる静止」『定本 見田宗介著作集Ⅱ』岩波書店

 

霧がいっぱいにはる香港の海を見ながら、そこには饗宴という名の物語が生まれてくるような予感をいだきながら、ぼくはカメラを海に向けた。

そうして、ぼくは、香港の「海景」を写真できりとってみる。

 

杉本博司の写真集『海景』シリーズのモチーフは、「原始人の見ていた風景を、現代人も同じように見ることは可能か」という自問であったという。

<原始人の見ていた風景>という、魅力あふれるイメージと想像力は、<打ち放しのコンクリートの階段に饗宴を見る視力>の戯れである。

このような想像力と視力に、ぼくは、あこがれる。