アジアを旅し、海外(ニュージーランド、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、香港)に住んできて、ぼくにとって大きかったことのひとつは、いろいろな人たちに出会ったり、いろいろな人たちと同じ空気を吸いながら、「こんな生き方もあるんだ」ということを、肌感覚で認識してきたことである。
いわゆる(狭義での)「情報」としては、ぼくたちは、「いろいろな生き方」があるということは知っている。
けれども、頭でわかっているだけで、「いろいろな生き方」を実感し、いろいろな生き方へとひらかれてゆくことは、それほど容易ではなかったりする。
「いろいろな生き方」をしている人たちが、じぶんの<実感として感じることのできる範囲>に現れることで、「いろいろな生き方」が、ぼくたち自身が自身のなかに仕掛ける<自明性の罠>(見田宗介)のなかに忍び込み、その罠をときほどいてゆく力を宿していく。
あくまでも、ぼくの経験上のことである。
アジアを旅しながら、ぼくはいろいろな「旅人」に出会ってきた。
1年以上の「年単位」で旅する旅人たちが存在することは、いろいろな本でも読めるし、情報としては知っている。
しかし、宿のドミトリーで、そんな人たちと会話をしていると、「いろいろな生き方があってもよい」という感覚が、ぼくの「あたりまえ」という<自明性の罠>に入り込んでゆく。
ニュージーランドに暮らしながら、そこでもいろいろな人たちに出会った。
アジアの国々から家族で移住してきた人たち、ニュージーランドで農場を営む人たち。
キャンプ場で出会った陽気な旅人たちは、イスラエルの兵士たちだと知る。
ぼくと同じように、ワーキングホリデー制度を利用して、「何か」を求めながら暮らしている日本の人たちなど。
西アフリカのシエラレオネでは、長い紛争が終わった後に、一生懸命に生活を立て直そうとする人たちがいた。
国連や国際NGOで働いている人たちも、いろいろな人たちで、シエラレオネという土地で、いろいろな人たちの人生が交差した。
世界の紛争地をかけめぐって支援をしている人たちもいる。
各国の軍隊や警察の人たちと、たまたま、このシエラレオネで出会う。
会う人たちそれぞれが、それぞれの「生き方」をもっていて、「生きる」ということが直線である必要もなく、いわば「物語」に充ちていることを知る。
「こんな生き方もあるんだ」という認識にひらかれる前は、ほんとうに狭い生き方の「枠」のなかに閉じ込められていたようで、ぼくはそれらをまるで「あたりまえこと」のようにして生きていた。
「あたりまえのこと」のような「現実」をつくっていたのは、(今思えば)ぼく自身であった(「ぼく」というのはひとつの<現象>であって、そのうちに、社会や世間などの他者の考えや声が入り込んでいるから、単純に「ぼく自身」と言い切れないところがあることは注記である)。
「あたりまえ」と勝手に思っていた社会やそこでの生き方から離れてみて、そしていろいろな人たちがぼくの半径○メートルという世界に現れて、ぼくのなかでの<自明性の罠>に亀裂が入っていったようだ。
シエラレオネの次に住んだ東ティモール。
こちらでも、長年にわたる紛争をのりこえてきた人たちに出会った。
一緒に働いたコーヒー生産者とその家族たちの「生き方」にも、どっぷりとつかった。
国連や国際NGOで働いている人たちの生きてきたルートもさまざまである。
それから、ここ香港。
ここはここで、多様性のある社会であり、家族の大切にされる社会である。
やはり、いろいろな人たちが、いろいろな生き方をしている。
ぼくは、このようにして、「こんな生き方もあるんだ」という感覚を、ぼくの<自明性の罠>からひらかれるようにして、ぼくのなかにつくりだしてきた。
このように、「生き方の幅」がひろがったことは、ぼくのなかで根拠のない自信も形成する。
なにがあっても大丈夫。
どのような人生のルートをとっていこうとも、どうにかなってゆく。
ぼくのなかに存在する他者たちも、ぼくにそう語りかけてくる。