<話合い>と<感覚>という「共同性の存立の二つの様式」(真木悠介)。- 「交響するコミューン」というモチーフ。 / by Jun Nakajima

社会学者である真木悠介の名著『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)は、生きていく過程で、じぶんのなかで問い、じぶんの経験に問われ、そうして生成していくような「根本的な問題」に充ちている。

そのような根本的な問題を明晰に提示し、ぼくたちの「生きる」ことのなかに種をまくように言葉を届けてくれることが、この「分類の仕様のない本」を名著にしている。

 

そのような根本的な問題として、<集団のあり方>の二つの様式・契機ということが、提起されている。

真木悠介は、「人間の個体性と共同性の弁証法の問題」として、問題を提起している。

現代において、時代の大きな過渡期のなかで、いろいろな集団や組織などがつくられ、運営され、試みられているなかで、この根本的な問題を認識しておくことは、とても大切なことであるように、ぼくは思う。

 

真木悠介が当時、実際に訪れたりして体験した集団として、「山岸会」と「紫陽花邑」という、二つの集団が取り上げられている。

山岸会の仕事をしていた野本三吉さんという方に、東京の若い施設員の方が、ある身心に問題を抱えた人を山岸会で生かしてもらえないかと依頼したところ、野本さんは、山岸会ではなく奈良の紫陽花邑をすすめたという。

野本さんは、「山岸会は話合いだからだめだと思った」と後日語ったという。

エゴの強い人は山岸会にいくとほぐれるけれど、弱い人や病気の人は紫陽花邑の方が幸福になるという、野本さんの考え方であったという。

真木悠介は、ここに、根本的な問題をきりとる。

 

 「話合いだからだめだ」という野本さんの直感は、本質的な問題を提起していると思う。
 紫陽花邑のばあい、「感覚でスッと通じてしまう」と野本さんはいう。…この<話合い>と<感覚>という、共同性の存立の二つの様式、二つの契機の問題は、われわれのコミューン構想にとって、最も深い地層にまでその根を達する困難な問題をつきつけてくる。

真木悠介『気流の鳴る音』筑摩書房、1977年

 

これら二つの集団の「自己規定」は、対照的であるという。

山岸会は、<ニギリメシとモチ>ということが取り上げられ、ニギリメシのように一粒一粒のお米のように一人一人のエゴが残って相克や矛盾が起きないように、モチのような「一体社会」を目指すという。

それに対して、紫陽花邑は、紫陽花の花のように、ひとりひとりが花開かせることをとおして、自然と、集団としてのかがやきを発揮しようとするという。

 

 二つの集団の自己規定は対照的だ。すなわち集団としてのあり方を性格づけるにあたって、山岸会では一体性を、紫陽花邑では多様性をまずみずからの心として置く。
 しかもこのことは、…<話合い>ー<感覚>という、共同性の存立方式における対比と、逆立しているようにみえる。<感覚でスッと通じる>ということの方が、個我相互間の、ある直接的な通底を前提するのにたいして、<話合い>による「公意」への参画という、媒介された共同性の形式の仕方においては、より多く個々の成員の「多様性」を前提もし、またこれを再生産するように考えられる。

真木悠介『気流の鳴る音』筑摩書房、1977年

 

共同性の存立方式における対比と、「逆立している」と、真木悠介は鋭く見て取っている。

大切なところなので、もう一度、まとめておくと、次のようになる。

 

●<話合い>の集団:「一体性」をめざす。→ 【成員の前提】個々の成員の「多様性」

●<感覚でスッと通じてしまう>集団:「多様性」をめざす。→ 【成員の前提】個我相互間の、ある直接的な通底

 

こうして、真木悠介は次のように文章を続けている。

 

 極限的な共同性(モチ!)をその理念とする集団が、まさにそれ故に、その現実の運動において、諸個体の個体性をより敏感に前提する方式をえらび、多様に開花する個体性(あじさい!)をその心とする集団が、まさにそのことにおいてある共同性を直接に存立せしめてしまう。あらゆるコミューンの実践にとって最も根本的な問題ー人間の個体性と共同性の弁証法の問題が、この逆説のうちに鋭く提起されている。

真木悠介『気流の鳴る音』筑摩書房、1977年

 

どちらの集団が良い悪いということではなく、「人間の個体性と共同性」をかんがえていくとき、また実際にコミューンや集団や組織をつくっていくときの「根本的な問題」として、だれもが、直面していくような、深い地層の問題である。

「多様性」ということがよく言われ、あるいは多様性に彩られた集団・組織(あじさい!)をつくることをめざす人たちが多い現代において、鋭い問題を提起してもいる。

『気流の鳴る音』の副題にある「交響するコミューン」を追い続けてきた真木悠介が、現代という時代のなかに「交響するコミューン」をうちたてようとするぼくたちの思考と実践に点火する「モチーフ」である。