松岡正剛が「ビフテキと茶碗蒸し」(松山幸雄)という、意外性のある「日本とアメリカ」の対比に触れる考察を取り上げ(2018年5月8日のブログ)、「日本人の会話」について書いた。
また、日本人のコミュニケーションという視点から、平田オリザが提案している、協調性から社交性へという、コミュニケーションの質の転換について、別のブログ(2018年5月9日)で触れた。
「心からわかりあえなければコニュニケーションではない」という、日本的なコミュニケーションの前提に疑問を付し、「わかりあえないこと」を前提とした社交性のコミュニケーションに活路をひらいている。
「対比」と「心」ということを組み合わせてみると、以前は、「日本は心、西洋は物」というような言い方をする人たちもいた。
この対比について、心理学者・心理療法家の河合隼雄が「近代科学と心」というエッセイのなかで、書いている。
1980年末頃のこと、河合隼雄がアメリカの大学を訪れたとき、「日本に臨床心理士はいないのですか」と言われて恥ずかしい思いをしたときのことだ。
そのアメリカの大学は日本の医療の研究を詳細に行なっており、臨床心理士というのがないので不思議に思ったという。
日本人は「自分たちは心を大切にする国民だ」と言って、「西洋の物質文明」に対抗するようなことを言うが、「心の専門家」を大切にしない日本人の方がよほど「物」ばかり大事にしているのではないか、と痛いことを言われた。日本人のなかには経済の成長にともなって、外国に行き、日本文化の優位を述べたりするときに、日本は心で西洋は物などということを単純に割り切って言う人があるので、これに反発している人が先のような質問をすることになるらしい。
河合隼雄『おはなし おはなし』朝日文庫、2008年
この文章につづけて、「日本で臨床心理学の発展が欧米の先進国に対して極端に後れをとった理由」について、若干の考察を加えている。
その第一としては、日本が西洋の文明に学ぼうとしはじめたころ、西洋においても臨床心理学などはまだなかったことなどである。
その後、西洋の学問体系を追いつき追いこせとやってきたけれど、ある程度の形ができあがっている日本の大学では、急に新しいものを取り入れるのは難しいといった、大学の学問としての側面についての考察である。
それらの視点に学びながら、他方で、ぼくの思考に、松岡正剛と平田オリザたちの思考がはいってくる。
平田オリザが書くように、「心を一つに」などといった「価値観を一つにする方向のコミュニケーション能力」が求められてきていた日本。
そのような協調性の磁場の内にあっては、「心の問題」は見えにくく、語られにくいところにあったのではないかと、ぼくは思う。
しかし、日本の高度成長とともに進む日本的な共同体の解体のなかにおいて、いわゆる個々の自我・自己の問題がより出てくることになる。
そのように近代化のプロセスのなかで、社会と人が、別々にではなく、互いに影響しながら変化してゆく。
経済成長のつづくアジアでは、このような社会と人の変化のなかで、「心の問題」がいっそう表面化してきているし、これからも増えていくものと思われる。
西洋が進んでいて、アジアが進んでいないという問題ではなく、近代化のプロセスを同じように取り入れてきている世界の各地で、あるところで起こった問題は、(形や内実を変形・変容させながらも)いずれ他のところでも起こる可能性がある。
そのような視点において、ぼくは、例えばアメリカで起きてきたことを、なるべく知り、学んでおくようにしている。