海外に住み働きながら、以前「あたりまえ」のように思っていたことに、括弧をつけて、距離をとってかんがえなおしてきたもののひとつに、「協調性」というものがある。
いや、正確に言えば、日本にいるときも、協調性には疑問を付していたと思う。
ただ、それは言葉という以上に、小さいころから、ぼくのなかにプログラムされているものであった。
日本の外に出て、「協調性」ではやっていけない(「協調性」がわるいわけではない。生き方は人それぞれだ)。
ざっくり言ってしまえば、そもそもが、日本のような均質な価値観をベースにした社会や環境ではなく、さまざまな価値観のもとで、人びとが生きている。
日本も多様化してきたなぁと思うところもあるし、日本も視点を変えてみてみれば多様性のあるところだけれど、それでも、外部から見てみると、そこにはより均質な価値観がうめこまれているように、見えたりする。
それでも、これからはますます、価値観やライフスタイルが多様になっていく日本を見つめながら、劇作家・演出家の平田オリザは、「日本人に要求されているコミュニケーションの能力の質」の転換を視てとっている。
…いままでは、遠くで誰かが決めていることを何となく理解する能力、空気を読むといった能力、あるいは集団論でいえば「心を一つに」「一致団結」といった「価値観を一つにする方向のコミュニケーション能力」が求められてきた。
しかし、もう日本人はバラバラなのだ。
さらに、日本のこん狭い国土に住むのは、決して日本文化を前提とした人びとだけではない。
だから、この新しい時代には、「バラバラな人間が、価値観はバラバラなままで、どうにかしてうまくやっていく能力」が求められている。
私はこれを、「協調性から社交性へ」と呼んできた。
平田オリザ『わかりあえないことからーコミュニケーション能力とは何か』講談社現代新書、2012年
「社交性」という概念は丁寧に選びとられている。
平田オリザが言うように、日本社会においては「社交性」という概念がよびおこすのは、「上辺だけのつきあい」「表面上の交際」といったマイナスのイメージであり、また「心とコミュニケーション」がセットになって教えられてきたようなところがある。
そして平田オリザの視線は、「心からわかりあえなければコミュニケーションではない」ということが、そうではない人たちを排除する論理となっていることへも注がれている。
著書名にあるように、「わかりあえないこと」を前提として、コミュニケーションの可能性をひろいだしている。
平田オリザはコミュニケーションから心をきりはなしたわけではない。
ただし、平田オリザが高校生たちに実際に語りかけるように、「心からわかりあえないんだよ、すぐには」という地点に置かれているということである。
この<社交性という作法>は、日本人が海外に出ていくときにも、方法のひとつとすることができるものだと、ぼくは思う。
海外において、集団や組織で「協調性」を(知らず知らずのうちに)もとめるのは、その主体にとっても、また客体(他者)にとっても、よいものではない。
「知らず知らずにもとめる協調性」であるかもしれないから、協調性をいったん括弧に入れて、じぶんの言動を見つめてみる。
<社交性という作法>は、協調性からいったん距離を置くうえでも、ひとつの拠り所となるように思う。